第18話:【幕間】冷徹なる神父ジェード
王都の郊外、深い森の奥にひっそりと佇む廃教会。
その地下深くには、冷たく湿った空気と、むせ返るような血の匂いが濃密に立ち込める隠し部屋が存在していた。
部屋の最奥には赤い布が掛けられた不気味な祭壇が設えられており、そこから淀んだ泥のような、禍々しい魔力が絶えず周囲に滲み出している。
その祭壇の前に、一人の男が静かに立っていた。
長い白髪を後ろで束ね、神聖な教会の神父が着るような純白の衣服を身に纏っている。
しかし、その整った身なりには似つかわしくない、底知れぬ狂気と冷徹さが、男の全身から静かに発散されていた。
男の名は、ジェード。
この王都の裏側で暗躍する組織の一員であり、今回の『目標』回収任務の現場指揮を執る男だ。
「――ご報告いたします、ジェード様」
静寂に包まれた地下室に、無機質な少女の声が響いた。
ジェードがゆっくりと振り返ると、そこには黒い戦闘服を纏ったアンナが、冷たい石の床に片膝をつき、深々と頭を下げて平伏していた。
彼女の服は所々が焦げ、刃物による裂け目があったが、激しい戦闘の痕跡とは裏腹に、その肉体は傷一つなく完全に修復されているようだった。
「ご苦労様でした、アンナ」
ジェードは物腰柔らかく、優雅な態度でアンナに向け微笑みかけた。
「それで? 予定よりも随分と帰還が遅かったようですが、あの方の回収は無事に済みましたか?」
「……申し訳ありません。任務は、失敗いたしました」
アンナの感情のない報告に、ジェードの微笑みがピタリと止まった。
「失敗、ですか。私の配下の中でも精鋭である貴女が手こずるとは……」
「想定外の『イレギュラー』が介入しました。冒険者を名乗る少年が一人、偶然にも目標に同行していたのです」
アンナは表情を変えることなく、淡々と路地裏での事実を並べていく。
「圧倒的な身体能力と、異様な気配を放つ未知の黒い剣。別動隊の五人が数秒で無力化され、私自身も交戦しましたが……彼を排除する前に、事態が動きました」
「ほう?」
「私と共に行動していた者の一人が、イレギュラーの力に焦り、ジェード様より賜った『宝珠』を独断で使用したのです」
その言葉が響いた瞬間、地下室の空気が一段と冷たくなった。
『宝珠』とは、対象を強制的に特定の空間へと転移させる、極めて強力な魔道具である。
本来ならば、目標を確実に生け捕りにし、この祭壇へと直接送り届けるための切り札だったはずだ。
「……なるほど。あの馬鹿者が、私の許可なく宝珠を使ったと。それで、あの方たちは今どこに?」
「それが……宝珠の転移座標が大きく歪み、予定の場所には転移されませんでした。おそらく、目標の持つ『呪い』が空間転移の魔力と反発したのだと推測されます。結果として、目標と少年は……襲撃した町の付近にあるダンジョンへと飛ばされました」
アンナの報告を聞き、ジェードは無言のまま、ゆっくりと彼女へと歩み寄る。
失敗した者には冷酷な処罰が下される。そう覚悟していたアンナの頭上で、ジェードはゆっくりと口を開いた。
「――ふ、ふふ……」
「……?」
「あはははははっ! 素晴らしい……!」
突如として、ジェードは自らの顔を両手で覆い、肩を震わせて狂ったように歓喜の笑い声を上げ始めた。
それは、部下の失敗を責めるものでも、計画の破綻を嘆くものでもない。心底からの愉悦と、恍惚に満ちた笑いだった。
「ああ、なんという素晴らしい奇跡か! これぞまさに、我らが主の導きという他ない!」
「ジェード、様……?」
「アンナ、貴女は自分が失敗したと思っていますね? いいえ、違います。これ以上ないほどの、最高の成果ですよ!」
ジェードは笑い涙を拭いながら、祭壇へと振り返り、両手を大きく広げた。
「未知のダンジョン……たとえ低級であろうと、太陽の光が一切届かず、醜悪な魔物たちが這いずり回る閉鎖空間には変わりない! 『呪い子』と呼ばれ、忌み嫌われてきたあの方にとって、そこはまさに究極の恐怖と孤独を味わう地獄です!」
興奮するジェードの瞳が、段々と血走った狂気に満ちていく。
「我々が求めているのは、ただの肉体ではありません。極限の恐怖と絶望、そして他者への猜疑心によって心を壊され、黒く染め上げられた、極上の『器』としての純度なのです! ダンジョンなればこそ、すぐには死なない。じわじわと神経をすり減らし、心を壊し、我らが主を受け入れるための隙間を広げてくれる最高の試練場となるでしょう!」
狂喜するジェードの言葉は、邪悪な存在への絶対的な信仰と、他者の命をただの供物としか見ていない冷酷な残虐性を如実に表していた。
「しかし、イレギュラーの少年が共にいます。彼が、あの方を守り抜く可能性も……」
「構いません。むしろ、その少年が希望を与えれば与えるほど、それが裏切られ、暗闇の底で惨たらしく死んだ時の絶望はより深く、より甘美なものになる!」
狂信的な歓喜の声を上げるジェードを前に、アンナは無言で平伏し続けていた。
彼女の茶色の瞳は、床の冷たい石畳を見つめたまま、微かな光さえも宿していない。
「……アンナ」
不意に、ジェードの笑い声が止み、氷のように冷徹な声が彼女を名指しした。
「貴女、少しばかり『感情』が揺れていませんか?」
「……」
「あの方が路地裏で転移に飲み込まれた時、貴女はひどく狼狽し、取り乱して手を伸ばしたそうですね」
ジェードはゆっくりと屈み込み、アンナの耳元で毒蛇のように囁く。
「あの方がダンジョンの底で魔物に食い殺されるかもしれないと想像して……悲しいですか? 己の裏切りを、後悔しているのですか?」
息の詰まるような沈黙が部屋の中に流れた。
アンナの脳裏に、つい数時間前まで共に笑い合い、自分を信じ切っていた少女の無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
魔法陣から発せられた紫色の閃光に飲み込まれる瞬間、思わず手を伸ばしてしまった自らの行動。
しかし、ジェードの問いを聞きつつも、アンナは無表情を崩すこともなく、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳には、一滴の涙も、微かな後悔の念も浮かんでいない。あるのは、すべてを凍りつかせるような完全な『無』だけだった。
「……いいえ」
アンナは、冷たく淀んだ声で言い放つ。
「私は、ジェード様の刃。目的を果たすための人形です。任務を遂行する上で、心など必要ありません」
「……ふふっ、素晴らしい。やはり貴女は、私が手塩にかけて育てた最高の人形です」
アンナの完璧な無機質さに、ジェードは満足そうに微笑んだ。
そして、彼はゆっくりと立ち上がり、地下室の入り口付近へと冷酷な視線を向けた。
「さて。次なる行動へ移る前に、まずは『清算』を済ませておきましょうか」
ジェードの視線の先。そこには、2人の信徒に両脇を抱えられ、床に引きずり出された血まみれの男の姿があった。
ショウトに敗北したあげく、路地裏で『宝珠』を独断で使用し、アンナと共に帰還した襲撃者のリーダー格の男だ。
「ジェ、ジェード様……! お、お許しを……! 私はただ、任務を完遂するために……!」
「ええ、分かっていますよ。結果として、貴方の行いは我々に最高の恩恵をもたらしてくれました」
「あ、ああ……! ありがたき……!」
ジェードからの言葉に安堵の涙を流す男。だが――
「ですが」
ジェードの声が、絶対零度の冷気を帯び男に向けられる。
「私の許可なく『宝珠』を使用した暴挙。そして何より、我らが主の至高の器となるあの方を、結果がどうであれ『殺そうとした』不敬の罪。これは万死に値する大罪です」
「ひっ……! お、お待ちを、ジェード様ぁぁっ!」
男の顔から絶望の叫びが漏れる。
ジェードは男の惨めな命乞いを心地よい音楽でも聴くかのようにうっとりと見下ろし、再びアンナへと向き直った。
「アンナ。あの方は今、暗闇の底で絶望という名の極上の果実を実らせています。それが熟し切った頃合いを見計らい、直接回収へと向かいます」
「はっ」
「そして、あの忌々しいイレギュラーを確実に排除し、計画を完璧なものとするため……貴女には、さらなる『力』を与えましょう」
ジェードが両手を掲げると、背後にある赤い布が掛けられた祭壇から、ドス黒い瘴気がうねりを上げて膨れ上がり始めた。
それは、アンナが路地裏で見せた力を遥かに凌駕する、圧倒的で邪悪な魔力の奔流。
「これより、この掟破りの愚か者の命を供物とし……貴女を我らが主の『使徒』へと昇華させる儀式を執り行います。……覚悟はできていますね?」
アンナは、死の恐怖に悲鳴を上げるかつての部下を一瞥することもなく、ただ深く、従順に首を垂れた。
「御意に。すべては、ジェード様と、我らが主の御心のままに」
冷たく響く少女の誓いと、地下室に響き渡る男の絶叫。
底知れぬ狂気と淀んだ魔力が渦巻く中、冷酷なる暗黒の儀式が、今まさに幕を開けようとしていた。




