第12話:喧騒に消えた少女
夕暮れの空が、活気あふれる街並みを鮮やかな茜色に染め上げていく。
ジュージューと肉の焼ける音、香ばしいスパイスの香り、行き交う人々の喧騒。
それらが織りなす平和な日常の風景の中を、俺たち三人はゆっくりと歩いていた。
初めての屋台飯を堪能し、珍しい小物やガラス細工を見て回るうちに、セレスの全身から張り詰めていた警戒心はすっかり解けていた。
時折見せる年相応の無邪気な笑顔は、夕日に照らされてとても柔らかく、隣を歩くアンナもまた、そんな彼女を心底嬉しそうに見守っていた。
「明日はついに、王都へ向けて出発ですね。今日はこの町の宿に泊まる予定ですが、少し長居をしてしまいました」
少し前を歩いて屋台を覗き込むセレスの背中を見守りながら、アンナが穏やかな声で言った。
「宿の心配ならいらないさ。もし空きがなくても、俺が野宿の準備くらいはできるし。それに、セレスがあんなに楽しそうなんだ。少しくらい寄り道しても罰は当たらないだろ」
俺が笑って答えると、アンナは「ショウト様はお優しいのですね」と、目を細めて微笑んだ。
その眼差しは、本当に妹を慈しむ姉のように温かく、セレスへの深い愛情を感じさせるものだった。
「アンナ、ショウト様! 見てください、あっちの広場で大道芸をやっているみたいです!」
数歩先からセレスが振り返り、弾んだ声で俺たちを呼ぶ。
俺とアンナは顔を見合わせ、自然と笑みをこぼしながら彼女の元へと歩み寄る。
こんな平和で温かい時間が、これからもずっと続いていくのだと、俺はこの時、何の疑いもなく信じ切っていた。
それは、俺たち三人が他愛のない会話を交わしながら、大通りの大きな交差点へと差し掛かった時に起きた。
「――危ないッ!」
前方の交差点から、耳をつんざくような怒声が響いた。
ハッと視線を向けると、巨大な荷馬車が交差点の真ん中で大きく傾いていた。車輪が石畳の深い窪みに嵌り込み、バランスを崩したのだ。
御者が必死に手綱を引くが、荷台に山積みにされた重い荷物が、無情にも遠心力に従って傾いていく。
――ブチィィィンッ!
荷台を固定していた極太のロープが、限界を迎えて弾け飛ぶ轟音。
次の瞬間、荷台に積まれていた大量の木箱が、大通りのど真ん中に向かって雪崩のように崩れ落ちてきた。
――ガシャァァァンッ!!
凄まじい破壊音と共に木箱が砕け散り、中から硬く重そうな果実や、金属製の部品などが、まるで散弾のように周囲の群衆へと降り注いだ。
「きゃああああっ!?」
「逃げろ! 潰されるぞ!」
突如として起きた事故に、大通りは一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥った。人々が悲鳴を上げ、我先にと逃げ惑い、押し倒された人たちで二次被害が起きかける。
その強烈な騒音と視覚情報の波が、俺の五感を一瞬にして飽和させた。
俺の危険探知のアンテナは『殺気』や『害意』には極めて敏感に反応する。
しかし、ただの物理的な事故と、一般人たちのパニックによる予測不能な動きの奔流の中では、咄嗟の反応が遅れてしまう。
「セレスッ!」
俺は腕を伸ばし、数歩前を歩いていたセレスの華奢な身体を強く引き寄せた。
「きゃっ……!?」
驚く彼女をすっぽりと腕の中に閉じ込め、俺の広い背中で降り注ぐ木箱の破片や硬い果実を受け止めるようにして身を屈める。
ゴンッ、ガンッ、と鈍い衝撃が背中や肩を叩く。
咄嗟に身体強化を巡らせた身体には痛むほどのダメージではないが、周囲の混乱と土埃が収まるまでは動くことができなかった。
永遠にも感じられた数秒後。ようやく木箱の崩落が収まり、周囲の悲鳴がざわめきと痛みに呻く声へと変わっていく。
もうもうと舞い上がる土埃の中、俺は警戒を解き、腕の中のセレスを見下ろした。
「……ふぅ。間一髪だったな。セレス、怪我はないか? どこかぶつけたりしてないか?」
「は、はい……。ショウト様が庇ってくださったおかげで、私は無傷です。……アンナ! アンナ、そっちは大丈夫――」
セレスが俺の腕の中から顔を出し、すぐ後ろにいたはずのアンナへと声をかけた。
だが、返ってくるはずの彼女からの返事はなかった。
「え……?」
俺は何か違和感を感じて、弾かれたように振り返る。
そこにあるのは、散乱した木箱の残骸、転がる果実、そして混乱して立ち尽くす人々の姿だけ。
つい数秒前まで、俺たちのすぐ背後で優しく微笑んでいた、あの茶色いおさげの少女の姿が、どこにも見当たらなかったのだ。
「アンナ……? アンナ! どこにいるの! アンナッ!」
突然アンナが消えたことに、セレスがパニックになり、周囲を見回して叫ぶ。
(おかしい……。悲鳴も何も聞こえなかったぞ!?)
その時、俺の背筋に氷のような悪寒が走った。
馬車の事故が単なる偶然か、あるいは意図的に引き起こされた陽動かは分からない。
だけど、1つだけ確かなことがある。
仮にアンナが攫われたとするなら、その犯人たちは俺の感知を完全にすり抜けるために、意図的に一切の『殺気』や『害意』を消していたのだ。
事故による周囲のパニックで感知の精度を潰された、ほんの数秒の死角。
その一瞬の隙を突き、音もなく、抵抗すら許さずに標的だけを連れ去る。
それは、路地裏のゴロツキなどには絶対に不可能な、暗殺や誘拐を専門とする本物のプロフェッショナルの手口だった。
「アンナ! アンナッ!」
セレスの悲痛な叫び声が大通りに響く。
彼女の顔からは完全に血の気が引き、その大きな碧眼からはポロポロと大粒の涙が溢れ出していた。
「うそ……私のせいで……。私が、こんな町に残って寄り道なんてしていたから、アンナが巻き込まれて……っ!」
彼女は自分の顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちそうになる。
自分が周囲に不幸を撒き散らしてしまう存在なのだという、彼女がずっと抱えてきた深く暗いトラウマ。
それが、彼女の心に強烈な罪悪感を植え付け、ささやかな幸福の記憶ごと押し潰そうとしていた。
「私が……私がいけないの……! アンナは私を守るために、ずっと側にいてくれたのに……っ!」
「セレス、自分を責めるな!」
俺は崩れ落ちそうになるセレスの肩を強く掴み、彼女と視線を合わせた。
「君のせいじゃない! それに、連れ去られたばかりなら、まだ遠くへは行ってないはずだ。俺が絶対に見つけ出す!」
「ショウト、様……でも、どうやって……」
俺は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
大通りの喧騒を聴覚から締め出し、物理的な五感の情報を意図的にシャットアウトする。
探すのは、つい先ほどまで俺たちのすぐそばで微笑んでいた、アンナの『魔力』だ。
仮に誘拐犯が物理的な痕跡をごまかせたとしても、生きている人間の魔力の残滓だけは、そう簡単に消せるものではない。
俺は全神経を集中させ、『魔力探知』を行う。セレスを探した時よりも早く、広範囲に意識を広げていく。
暗闇に包まれた俺の網膜の裏に、無数の魔力の光が点滅し始めた。
その中から、あの静かで几帳面な、ひんやりとした透明な魔力を探し出す。
(……見つけた!)
間違いない、アンナの魔力だ。
その微かな魔力の痕跡は、騒々しい大通りから逸れ、太陽の光が届かない薄暗い路地裏の奥深くへと伸びていた。
アンナは誘拐犯に捕まったままなのか、または既に逃げ出し追われているのか、不自然なほどの猛スピードで俺たちから離れていく。
「セレス、見つけた! こっちだ!」
俺が目を開き、路地裏の入り口を指差す。
「本当ですか……!?」
セレスが涙で濡れた顔を上げ、すがるように俺を見た。
「ああ。俺から絶対に離れるな。走るぞ!」
「っ……はい!」
俺はセレスの小さな手を強く握りしめ、魔力の痕跡が指し示す暗闇の中へと飛び込んだ。
(どうか、無事でいてくれ……)
祈るような気持ちで、入り組んだ路地裏を駆け抜ける。
俺の手を握り返すセレスの小さな手は、罪悪感と恐怖で小刻みに震えていた。
つい先ほどまで、屋台の並ぶ通りであんなに優しく微笑んでいたアンナの姿が脳裏をよぎる。
セレスに真っ直ぐな愛情を向け、彼女の笑顔を自分のことのように喜んでいたあの温かい人柄。
(どんな危険な連中が相手だろうと、絶対に助け出してやるからな)
そして、もう一度あの温かい日常に帰るんだ。
俺はそう強く心に誓い、より一層足に力を込めて、さらなる暗がりへと駆け出していった。




