第2話:恩人との再会、非常な現実
――『現実』とは、『淡泊』であり『残酷』であり
案内されるまま、俺は木の温もりに溢れたログハウスの廊下を歩いていた。
前を歩く絶世のメイド――彼女の背筋は定規を当てたようにピンと伸びており、足音ひとつ立てずにフローリングの上を滑るように進んでいく。
廊下には、俺の歩みに合わせて軋む床の音と、外から聞こえる小鳥のさえずり、そして歩くたびにメイドの腰元で揺れる銀色のチェーンと白い懐中時計が微かにチャキ、チャキと小気味良い音が響いている。
(マジで、何なんだよこの状況……)
ついさっき、数時間前までは、ただの高校生だったのだ。
友達と別れ、家に帰り、ゲームをして寝るだけの平凡な日常。それがたった一瞬の閃光で、得体の知れない化け物が跋扈する森に放り出され、今はこんなファンタジーRPGのヒロインみたいな美女たちに保護されている。
非現実的すぎる光景の連続に、頭の中はずっとフワフワと現実感を喪失していた。
「お客様、こちらの部屋になります。申し訳ありませんが、少々お待ちくださいませ」
やがて、長身のメイドが立ち止まり、廊下の突き当たりにある一際大きな両開きの扉に手をかけた。
ガチャリ、と重厚な音を立てて扉が開かれる。
「主、お客様をお連れいたしました」
長身のメイドに促されるまま、俺は恐る恐るその部屋へと足を踏み入れた。
そこは吹き抜けの天井を持つ広々としたリビングダイニングだった。
石組みの立派な暖炉があり、壁には見たこともない意匠の美しいタペストリーが飾られている。大きなガラス窓からは眩しいほどの朝の光がたっぷりと注ぎ込み、部屋全体を黄金色に染め上げていた。
そして、その窓際に置かれたアンティーク調の丸テーブルの席に、『彼女』は座っていた。
「やあ。おはよう、少年」
透き通るような、それでいて心の奥底に直接響くような、不思議な安心感と威厳を持った美しい声。
朝の光を一身に浴びて微笑むその姿を見た瞬間、俺は文字通り呼吸を忘れ、入り口で完全に硬直してしまった。
月明かりをそのまま糸にして紡いだような、輝く白銀の長い髪。
森の深奥を思わせる、神秘的で吸い込まれそうな翡翠の瞳。
そして、髪の隙間から覗く、長く尖った美しい耳。
昨日、あの恐ろしい異形の獣から俺を救い出してくれた、『エルフ』の女性だった。
座っているため正確には分からないが、案内してくれたメイドが長身だったのに対し、「主」と呼ばれている彼女は意外なほどに小柄な体格をしているように見えた。
「よく眠れたかな? まだどこか痛むところや、気分の悪いところはない?」
ティーカップを静かにソーサーに置き、彼女は小首を傾げて優しく尋ねてくる。
まるで絵画をそのまま切り取ったかのような、あまりにも完成された美しさ。その神々しいまでの姿に、俺の脳は思考を停止し、ただ口をパクパクとさせることしかできなかった。
「……お客様? 主がお尋ねです」
背後に立つ長身のメイドから、静かな、しかし確かな圧を伴った声がかけられる。
ハッと我に返った俺は、慌てて居住まいを正し、バタンと勢いよく頭を下げた。
「あ、は、はい! どこも痛くありません! その……、昨日は、本当にありがとうございました! あなたが助けてくれなかったら、お、俺、いや、僕は間違いなくあの化け物に殺されてました……! あ、あなたは僕の命の恩人ですっ!!」
声が上擦ってしまったが、心からの感謝だった。
あの時の絶望感と、彼女の手に頭を撫でられた時の温もりは、一生忘れることはないだろう。
俺が90度の角度で深々と頭を下げていると、エルフの女性はフフッと柔らかく吹き出した。
「そんなに硬くならないでおくれよ。私が好きで助けただけだからね、気にする必要は全くないよ。さあ、ずっと立っていないで、そこへ座って」
彼女がテーブルの向かいの椅子を勧めてくれる。
俺は「失礼します」と小声で言いながら、ガチガチに緊張した動きで椅子に腰掛けた。
「クレス、彼にもお茶を」
「かしこまりました」
エルフの女性が短く命じると、長身のメイド――クレスと呼ばれた女性が、流れるような手つきでティーポットを持ち上げた。
トクトクトク……と、琥珀色の液体が俺の前のティーカップに注がれていく。一滴もこぼすことのない完璧な所作。鼻腔をくすぐる、花のような甘く芳醇な紅茶の香りが、俺の張り詰めた神経を少しだけ解きほぐしてくれた。
「さて、まずは自己紹介からにしようか」
クレスが壁際にスッと下がったのを確認してから、エルフの女性は居住まいを正し、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「私の名前は、『リリストーラ』って言うんだ」
「リリストーラ……さん」
俺がオウム返しに呟くと、彼女は少しだけ照れくさそうに笑い、パタパタと手を振った。
「あぁ、でもその名前は少し長いだろう? 私のことは『リリィ』と呼んでくれていいよ、特別だ。そして後ろで控えている私のかわいいくて美人なメイドが、『クレスティナ』。『クレス』と呼んであげてね。私たちは、今は二人でこのログハウスにひっそりと暮らしているんだ」
「リリィさんに、クレスさん……ですね」
俺は二人の名前を忘れないように、頭の中で反芻した。
リリィさんはにっこりと微笑むと、俺の方へと手のひらを向ける。
「君の名前は?」
「あ、有馬です! 有馬 翔斗と言います! 高校の……あ、いや、えっと、ただの学生です」
焦って名前を名乗ると、リリィさんは翡翠の瞳を細め、慈しむような、どこか懐かしむような優しい声で「『ショウト』か。いい名前だね」と口ずさんだ。
その声の響きに、思わず顔が熱くなる。
だが、和やかなティータイムの空気は、そこまでだった。
リリィさんはティーカップを置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。それまでの優しいお姉さんのような空気が一変し、まるで絶対者のような、静かで、しかし逆らうことのできない威圧感が部屋を包み込む。
「……ショウト。君も薄々、自分が置かれている異常な状況には気付いているはずだ。昨日のあの『異形』を見れば、ここが君の知る世界。常識が通じない場所であることは理解できるね?」
「……はい」
俺はゴクリと唾を飲み込み、頷いた。
そうだ。いくら現実逃避しようとしても、あの化け物は俺の住んでいた国にはいない。海外でさえ、あんな化け物がいるだなんて聞いたことも、見たこともない。
ここは、俺の知っている世界ではないのだ。
リリィさんは俺の目をじっと見据え、静かな、けれどはっきりとした声で告げた。
「ショウト。ここは、君がいた世界とは全く違う場所――いわゆる『異世界』だよ」
その言葉が、静かなリビングに重く響き渡った。
アニメや小説で何度も触れてきたはずの言葉が、これほどまでに重く、そして恐ろしい響きを持って自分の現実に突きつけられる日が来るとは、夢にも思っていなかった。
――だからこそ人は『夢』を見る




