第1話:見知らぬ天井と美貌の案内人
――窮地を救われ、人はそれを『幸運』と呼ぶ
――――ふかふかだ。
意識が泥のような深い眠りからゆっくりと浮上していく中、最初に脳が認識したのは背中と後頭部を優しく包み込む極上の柔らかさだった。
寝ぼけながら寝返りを打つと、身体の動きに合わせてシーツの擦れる微かな音がする。
鼻腔をくすぐるのは、実家の柔軟剤の匂いではなく、新築のコテージを思わせるような心地よい木の香りと、微かなハーブのような清涼感のある香りだった。
全身を包み込むような心地よい微睡みの中で、俺はゆっくりと重い瞼を開けた。
「…………知らない、天井だ」
寝起きで霞む視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の無機質な蛍光灯でも、長く日に当たり色が変わった壁紙でもなかった。
温かみのある木材が並んだ木目調の天井に、壁には剥き出しの逞しい丸太が積み重なり存在感を放っていた。
まだ気だるい上体を起こして周囲を見渡す。
そこには見るからに上質そうな木材をふんだんに使って組み上げられた、大小様々な家具が整然と並び、塵1つなく清掃された清潔感のあるログハウスの一室のようだった。
小窓からは穏やかで暖かな陽の光が差し込み、部屋の中を明るく照らし、遠くからは小鳥のさえずりのようなものまで聞こえてくる。
まるで避暑地の高級ペンションにでも泊まりに来たかのような、絵に描いたような完璧で平和な朝の情景。
「……夢、じゃないんだよな」
シーツを強く握りしめる手のひらには、確かな布の感触がある。自分の頬をつねってみると、しっかりと鋭い痛みが走った。
昨日の……いや、あれからどれくらい時間が経ったのかすら分からないが、あの異常すぎる出来事はまるで直近のトラウマのように、鮮明に脳裏に焼き付いていた。
放課後の友人たちと別れた直後に起きた視界を奪うほどの突然の閃光。
気付けば放り出されていた、見知らぬ不気味な森。
そして――――どす黒い靄を纏いながら俺を殺そうと襲いかかってきた、巨大な異形の獣。
「っ……そうだ、足!」
強烈に刻まれた絶対的な死の恐怖を思い出し、俺は弾かれたように掛け布団を跳ね除け、自分の右足を確認した。
あの獣の鋭い爪に後ろからふくらはぎを切り裂かれ、確かに肉が裂ける焼け付くような痛みを感じたはずだった。
しかし、恐る恐る撫でてみたそこには、傷痕1つ、かさぶた1つ残っていない。
それどころか、森を逃げ回って泥と血にまみれて傷だらけになっていたはずの学生服は消え失せ、代わりに着心地の良い、白色の簡素な寝巻きに着替えさせられていた。
「どうなってんだよ、これ……」
確実に重傷だったはずの傷が跡形もなく消えていることに安堵する一方で、痛みも傷跡もない常識外れの状況に頭が全く追いつかない。
最後に覚えているのは、あの恐ろしい異形の獣を一瞬で倒したであろう、人間離れした美しさを持つ『エルフ』の女性だ。
彼女の放つ底なしの安心感に包まれ、子供をあやすように頭を撫でられながら、そのまま彼女の腕の中で気を失ったはずだった。
(あの人が助けてくれたのか? ……だとしたら、ちゃんとお礼も言えてない。とにかく、ここを出て誰かを探さないと)
いまだに状況が呑み込めず混乱する頭に無理やり活を入れ、ベッドから抜け出そうと両足をシーツから出してフローリングの床に下ろした、まさにその瞬間だった。
――――コンコン
「ひゃっ!?」
静寂な部屋に突如として響いたノックの音に、俺は肩を大きく跳ねさせて情けない変な声を上げてしまった。
バクバクと急激に跳ね回る心臓を左手で押さえながら、木製の扉の方を凝視する。
「……失礼いたします。お目覚めになられましたでしょうか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、冷たい泉の底を思わせるような、静謐で落ち着き払った女性の声だった。
昨日俺を助けてくれたエルフの女性の声とは明らかに違う。俺はカラカラに乾いた喉をゴクリと鳴らし、裏返りそうになる声を必死に抑えて何とか返事をした。
「あ、は、はい! 起きてます!」
俺が返事をすると、ガチャリと静かな音を立てて、重厚な扉がゆっくりと開く。
そして、そこに立っていた人物の姿が目に入った瞬間、俺は文字通り息を呑み、ベッドの端に座ったまま完全に硬直してしまった。
「お加減はいかがでしょうか。ご気分が優れなかったり、お身体に痛みなどはございませんか?」
部屋に足を踏み入れたのは、息が止まるほどの『絶世の美女』だった。
女性としてはかなり長身な部類であろう、身長は優に180センチ近くはあるだろうか。ベッドに座っている俺からすると、完全に見上げる形になるほどの迫力がある。
腰までありそうな艶やかな漆黒の長い髪は後ろで無駄なく綺麗にまとめられており、黒髪から覗く透き通るような白い肌には一切の淀みがない。
そして、俺の目を最も強く釘付けにしたのは、彼女が身に纏っている衣服だった。
足首まで届くクラシカルなロングスカートに、純白のフリルがあしらわれたエプロン。どこからどう見ても正統派のメイド服だ。
だが、その厳格な衣服の上からでもはっきりと分かるほど、彼女のプロポーションは常軌を逸して抜群だった。ボン、キュッ、ボンという擬音がこれほど似合うスタイルを、俺は現実で見たことがない。
腰のあたりには、鈍く光る銀色のチェーンで繋がれた『白い懐中時計』が揺れており、歩くたびに微かな音を立てている。
さらに彼女の顔立ちを引き締めているのは、切れ長で知的な黒曜石のような瞳の奥にかけられた、フレーム式の眼鏡だった。
その知的な眼鏡が、彼女の「冷静沈着でお淑やかなメイド」という完璧すぎる佇まいを一層引き立て、近寄りがたいほどの気品を放っている。
(メ、メイド服……!? しかも、本物の……!)
テレビ中継などで取り上げられる秋葉原で見かけるような、可愛さを求めた装飾過多な衣装ではない。実用性と圧倒的な気高さを兼ね備えた、本物の『メイド服』だ。
普通の男子高校生である俺のキャパシティはとっくに限界を突破し、オーバーヒートを起こしていた。
ドギマギと視線を彷徨わせ、顔が一気にカッと熱くなるのを感じる。もしかして、俺の服を着替えさせてくれたのは……この人、なのか?
「あ、えっと……その……」
「……お客様? いかがなさいましたか?」
眼鏡の奥の静謐な瞳にじっと見つめられ、俺は慌ててブンブンと首を振った。
「あ、はいっ! だ、大丈夫です! どこも痛くないですし、足の傷もすっかり治ってて……あの、えっと、着替えまでさせてもらったみたいで、その、あ、ありがとうございます!」
「いえ。貴方様が無事で何よりでございます」
顔を真っ赤にしながら俺がペコペコと頭を下げると、メイドの女性は恭しく、流れるような美しい所作で一礼を返した。
その完璧な立ち振る舞いに、俺はただただ見惚れることしかできない。
「我が主がお呼びです。ご案内いたしますので、準備がよろしければお部屋の外へ」
「あ、主って……昨日、俺を助けてくれたエルフの……?」
「さようでございます。詳細につきましては、主の口から直接お話しさせていただきます」
そういうと、彼女は静かに扉の横へと下がり、俺が部屋から出るのを待つ態勢に入った。
(主ってことは、やっぱりこのメイドさんは、あのエルフの人の使用人ってところなのかな……。な、なんだか本当に、異世界にでも来たみたいだ……)
まだ状況の半分も理解できていないが、少なくとも彼女たちに敵意がないことだけは確かだと思う。
俺は小さく深呼吸をして気を引き締めると、今の得体の知れない状況と、目の前の美女に対する緊張で心臓をバクバクさせたまま、俺を助けてくれた恩人へ会いにベッドから下りて部屋の外へと足を踏み出した。
――だが、それは『偶然』か『必然』か




