第8話:迷子の『令嬢』と『少年』
(……っ、はぁっ、はぁっ……!)
喧騒に満ちた大通りを、私は逃げるように走り抜けていた。
目深に被ったローブのフードが風で脱げそうになるのを片手で必死に押さえながら、行き交う人々の隙間を縫うようにして駆け抜ける。
(ごめんなさい、ごめんなさい……!)
心の中で、何度も懺悔の言葉を繰り返す。
先ほど、屋台の前でぶつかってしまったあの少年の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
私の手が彼の指先に触れたあの瞬間、確かな異変があった。
彼は何かに打たれたように大きく目を見開き、全身を強張らせて完全に硬直してしまったのだ。
その理由は、考えるまでもない。私に宿る、忌まわしき『呪い』のせいだ。
そんな私に触れられたことで、あの少年の体内で何らかの深刻な異常をきたしてしまったに違いない。
だから、彼はあんなにも驚愕し、固まってしまったのだ。
(……最低です。また、無関係な人を傷つけてしまった)
『呪い子』
その事実だけでも周囲に迷惑をかけているというのに、お忍びで町に出た先で、無実の人に呪いの影響を与えてしまうなんて。
本当なら、彼が倒れないか最後まで見届けて、きちんとお詫びをしなければならなかった。
けれど、彼が私の体質に気づき、蔑みと恐怖の目を向けてくるかもしれないという想像に、私の心は耐えきれなかった。
「……アンナ、どこ……?」
息を切らしながら周囲を見渡すが、頼るべき友人の姿はどこにもなかった。
今日、普段よりも失敗が重なったことにひどく落ち込んでいた私を見かねて、「息抜きに町へ出かけましょう」と誘ってくれたのは、昔から私によく仕えてくれている使用人のアンナだった。
しかし、慣れない大通りの人混みに押し流されるうちに、いつの間にか彼女とはぐれてしまったのだ。
生まれてからずっと、決められた教本と限られた人間関係の中で生きてきた私にとって、この活気に溢れ無数の人間がひしめき合う町の光景は、あまりにも情報量が多すぎた。
「アンナ……っ」
右も左も分からず、土地勘なんてあるはずもない私は、ただ当てもなく歩き回ることしかできなかった。
次第に体力が削られ、人々の視線や喧騒が、まるで私を責め立てる物理的な圧力のように重くのしかかってくる。
(これ以上は、無理……少し、休まないと……)
眩暈すら覚え始めた私は、大通りの賑わいから逃れるようにして、人通りの少ない薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
湿った冷たい空気が、火照った肺を満たす。
太陽の光が届かない石造りの建物の隙間は、ひっそりと静まり返っていた。
私は壁際に歩み寄り、崩れ落ちるようにして冷たいレンガの壁に背中を預けた。
「……はぁっ、はぁっ……」
荒い呼吸を整えながら、私はギュッと目を閉じた。
完璧でなければならない。誰にも迷惑をかけてはいけない。
そう思って、剣術を始め、体術や薬学、算術などの知識を必死に詰め込んできたというのに。
結局、私は何1つ1人でまともにこなすこともできず、こうして迷子になって、ただ路地裏でうずくまっている。
(お母様も、きっと今の私を見たら、呆れて二度と顔を見たくないとおっしゃるわ……)
自己嫌悪に押し潰されそうになりながら、見えない何かから隠れるようにローブの下で自分の両腕を抱きしめた。
その時だった――
「――あっ! いたっ!」
路地裏の入り口の方から、微かに息を弾ませた少年の声が響いた。
「っ!?」
ビクリと肩を震わせ、声のした方へ顔を上げる。
逆光になっていて表情はよく見えないが、グレーの外套を羽織ったそのシルエットには見覚えがあった。
先ほど、私がぶつかってしまったあの少年だ。
(どうして……!? どうやって私を……)
『魔力探知』には引っかからないはずの私を、彼がどうやってこの複雑な街並みの中から見つけ出したのかは分からない。
しかし、彼がわざわざ私を探し出し、ここまで追ってきた理由は1つしか思い浮かばなかった。
ゆっくりと、彼が路地裏の奥、私の方へと歩み寄ってくる。
建物の影に入り、逆光で隠されていた彼の顔が、徐々にはっきりと見え始めた。
そして、彼の表情を見た瞬間、私の心臓は恐怖で冷たく跳ね上がった。
彼の顔には、先ほど屋台の前にいた時のようなどこか間の抜けた人の良さそうな気配は微塵もなかった。
眉を深く寄せ、眼光はひどく鋭い。周囲の空気をピリつかせるほどの、張り詰めた険しい表情だった。
(怒って、いる……。当然よ、いきなりぶつかられた挙句、呪いをかけられて、逃げられたのだもの)
私の呪いのせいで、彼の体にどれほどの不調が起きているのかは分からない。
もしかすると、激しい痛みや魔力阻害に苦しめられ、その怒りと恨みをぶつけるために私を追ってきたのかもしれない。
「あの、私は……」
震える声で彼に何かを言いかけようとしたが、恐怖で喉が引き攣って無様にも言葉にならなかった。
彼がさらに一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
その足取りには一切の迷いがなく、私という存在を確実に『標的』として捉えているように見えた。
(殴られる……? それとも、化け物だと罵られる……?)
あの場所にいた頃から、影で蔑まれることには慣れているつもりだった。
しかし、明確な敵意と怒りを持って他者から直接迫られる経験など、私にはない。
私は無意識のうちに壁へ背を押し付け、震える手をローブの内側へと滑り込ませた。
そこにあるのは、自衛のために常に隠し持っている護身用の短剣の柄。
彼を傷つけるつもりはない。しかし、もし彼が怒りに任せて暴力を振るおうとするのなら、最低限の抵抗はしなければならない。
(……ごめんなさい。でも、私は……!)
恐怖で足がすくみ、ここから逃げ出すこともできない。
私はただ、近づいてくる彼の険しい表情から目を逸らすことができず、これから投げつけられるであろう激しい怒声と侮辱の言葉に、覚悟を決めて身を固くした。




