第3話:師匠の『涙』と、『贈り物』
旅立つと決めてからの数日間は、あっという間に過ぎ去った。
俺の初めての旅支度は、クレスさんの完璧な主導のもとで着々と進められていた。
数日分の干し肉や硬いパンなどの携帯食料、火打ち石、野営用の防水布。そして、いざという時のための回復ポーションが数本。
クレスさんはそれらを、取り出しやすさと重量バランスを完璧に計算して革のリュックに詰め込んでくれる。
夜になれば、リリィさんが焚き火の前で『野外での魔物の避け方』や『怪しい旅商人を見分けるコツ』など、実戦的な(時々やけに生々しい)サバイバル術を叩き込んでくれた。
そして、ついに森を出発する日の朝がやってきた。
「……よし」
自室の鏡の前で、俺は自分の姿を確認する。
動きやすい濃緑色のチュニックに、丈夫な革の胸当て。
腰にはクレスさんが持たせてくれた鞘に『漆黒の剣』を帯び、背中には使い慣れたリュックを背負っている。
赤い髪を隠すためのグレーの外套を羽織れば、どこからどう見ても立派な駆け出しの冒険者だった。
俺は緊張を解きほぐすように大きく深呼吸をして、部屋の扉を開ける。
階段を降りてログハウスの玄関に向かうと、そこにはすでに見慣れた二人の姿があった。
「ショウトぉぉぉぉっ! ぐすっ、うわああぁぁん!」
「……ちょ、リリィさん!?」
玄関を出た瞬間、リリィさんが俺に飛びついてきて、大げさな声を上げて泣き崩れた。
あの凄まじい実力を持つ最強の師匠が、まるで子供が遠足に行くのを嫌がる母親のように、俺の外套を掴んでボロボロと大粒の涙を流している。
「あんなに、あんなにひょろひょろだった私の可愛い弟子が、一人で旅に出るなんてぇ! 外の世界には悪い大人がいっぱい、いっぱいいるんだよぉ! 騙されて身ぐるみ剥がされたらどうするのさぁ!」
「だ、大丈夫ですよ! ちゃんと騙される前に逃げますから!」
漫画のような大号泣に戸惑う俺の横で、クレスさんがスッとリリィさんに純白のハンカチをあてがった。
「リリィ様、お見苦しいですよ。鼻水がショウト様の外套についてしまいます。さあ、チーンしてください」
「ずずっ、ちーん! ……だってぇ、クレスは寂しくないのかい!」
「寂しくないと言えば嘘になりますが、私たちがいつまでも甘やかしていては、彼のためになりません」
いつも通り冷静にリリィさんの鼻をかませながら、クレスさんは眼鏡の奥の黒曜石のような瞳を俺へと向けた。
その視線はいつも通り淡々としていたが、確かな温もりと信頼がこもっていた。
「ショウト様。忘れ物はありませんね?」
「はい。クレスさんに手伝ってもらったおかげで、完璧です」
「結構。……外の世界は、この森のように優しくはありません。理不尽な悪意や、避けられない戦いも数多くあるでしょう」
クレスさんは、俺の外套の襟元をスッと整え、真っ直ぐに俺を見つめた。
「ですが、あなたなら大丈夫です。リリィ様や私が、外の世界に出た途端に野垂れ死ぬような、そんな、つまらない男に育てた覚えはありませんので。自信を持って、胸を張って歩いてきなさい」
「クレスさん……」
その厳しくも温かい激励に、俺は胸の奥がギュッと熱くなった。
理不尽な手違いでこの世界に落とされ、絶望していた俺を拾ってくれた二人。
暴発する力に怯える俺を見捨てず、時には厳しく、時には呆れるほど過保護に、今日まで育て上げてくれた。
この二人がいなければ、俺はとっくにどこかで死んでいたか、周囲を巻き込んで自滅していただろう。
「……はいっ。リリィさん、クレスさん。本当に、今までありがとうございました。絶対に、無事で帰ってきますから」
溢れそうになる涙をグッと堪え、俺は二人に深く頭を下げた。
「……んっ、ぐすっ。まったく、いい男になったじゃないか」
目を真っ赤にしたリリィさんが、鼻をすすりながら立ち直り、俺の前に立った。
そして、彼女は自分のポケットから『何か』を取り出した。
「最後に、優しい師匠からのお節介だよ」
「これは……?」
リリィさんが俺の首にサッとかけたのは、革紐で編まれた小さなペンダントだった。
丁寧に彫られた木工品の土台の中央に、透き通るような美しい琥珀色の石が埋め込まれている。手に取ると、ほんのりと温かい魔力のようなものを感じた。
「私が作った特製の御守りだよ。……いいかい、ショウト。いつ、いかなる時も、絶対にこれを肌身離さず身につけておくこと。お風呂に入る時も、寝る時もだよ。絶対に外しちゃ駄目だからね。分かった?」
「お風呂の時もですか? ……分かりました。大切にします」
やけに念を押してくるリリィさんに少しだけ苦笑しつつも、俺はそのペンダントを服の内側にしっかりとしまい込んだ。
胸の奥で眠る『神器』の熱とは違う、見守ってくれる家族の優しい温もりが、そこにあるような気がした。
「よし! それじゃあ、気をつけて行ってくるんだよ! アドレイア王国の王都にいる『お節介焼き』によろしくね!」
「道中、くれぐれもお気をつけて」
「はいっ! 行ってきます!」
俺は涙を堪えきれずに、それでも精一杯の笑顔を作って、二人に向かって大きく手を振った。
朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込み、ログハウスを背にして歩き出す。
木漏れ日の差す森の道を一歩ずつ進むたびに、落ち葉を踏む音が心地よく響いた。
振り返ると、遠ざかるログハウスの前に立つ二人が、いつまでも俺に向かって手を振ってくれているのが見えた。
その光景をしっかりと目に焼き付け、俺は前を向く。
目指すは、この森の先にある最寄りの村。そこから乗合馬車を乗り継ぎ、アドレイア王国の王都へ。
胸には師匠からの御守りと、まだ見ぬ世界への希望。
俺の異世界での本当の旅が、今、静かに幕を開けた。
――「…………」
――「お嬢様」
――「…………」
――「お嬢様」
――「も、申し訳ござっ…、あ、アンナだったのね」
――「お嬢様……こちらに来ていただけますか」
――「……どうしたの?」




