第1話:『終わり』と『始まり』
「ふっ、シィッ……!」
朝靄が立ち込めるログハウスの裏庭で、俺は鋭く息を吐き出しながら地を蹴った。
魔力を込めた足が地面を削り、爆発的な推進力となって身体を前方へと弾き出す。
空気を切り裂くような速度で踏み込み、右手に握った『漆黒の剣』を一閃する。
刃が空を薙ぎ払うと同時に、極限まで圧縮された『熱』が赤い軌跡となって虚空に刻まれた。
かつては指先に魔力を込めただけで灼熱の奔流となって暴発していたエネルギーは、今や完全に俺の意思の下に統制され、一振りの剣撃として完璧な形を成している。
「よし、そこまで。見事な太刀筋だね、ショウト」
いつもの切り株に腰掛けたリリィさんが、パチパチと軽い拍手を送ってきた。
俺は小さく息をつき、右手の力を抜く。すると、手のひらに握られていた漆黒の剣――俺の身体に宿る神器は、陽炎のように揺らめいてスッと空中に溶け、姿を消した。
(……今日も、起きる気配はない、か)
胸の奥深く、静かな水底で丸くなって眠る黒髪の少女の姿を思い浮かべ、俺は小さく苦笑した。
俺がこの見知らぬ異世界に放り出され、リリィさんとクレスさんに拾われてから、すでに数年の月日が流れていた。
右も左も分からず、自分の内に眠る爆弾のような力に怯えていた迷子の高校生は、毎日の血を吐くような(本当に血反吐を吐いていた)特訓を経て、17歳の誕生日を迎えていた。
身長も随分と伸び、ひょろひょろだった身体には、リリィさんの苛烈な体術と剣術の特訓に耐え抜いた引き締まった筋肉がついている。
あれだけ集中しなければできなかった魔力の操作も、身体強化も、息をするように自然に行えるようになっていた。
「お疲れ様です、ショウト様。冷たいお水と、汗拭きのタオルです」
「ありがとうございます、クレスさん。……ふぅ、生き返る」
いつの間にか背後に控えていたクレスさんからタオルを受け取り、顔の汗を拭う。
数年経っても、彼女の完璧なメイドぶりと、一切表情を変えずにこなす恐ろしいサポート力は健在だった。
「いやあ、立派になったものだね。私が教えた剣術の型も、すっかり身体に染み付いている。魔力制御も申し分なし。……うん、教え子としては百点満点だ」
「本当ですか? 珍しく素直に褒めてくれますね」
リリィさんは切り株からぴょんと飛び降りると、俺の前に立って腕を組んだ。
出会った頃から全く変わらない、白銀の長髪と翡翠の瞳。
相変わらず見とれるほど整った容姿の彼女だが、俺にとっては『信じられないくらい強くて、時々とんでもなく理不尽な特訓を課してくる最強の師匠』である。
「ああ、本心だよ。ショウトはよく頑張った」
リリィさんは満足そうに頷き、そして、どこか清々しい笑顔でこう告げた。
「だからね。ショウトの修行は、今日で終わりだ」
「……はい、ありがとうございます。じゃあ明日のメニューは……って、え?」
俺はタオルで顔を拭う手を止め、間の抜けた声を漏らした。
隣に立つクレスさんにも視線を向けるが、彼女は眼鏡をクイッと押し上げただけで、特に驚いた様子はない。
……どうやら知らなかったのは俺だけらしい。
「お、終わりって……どういうことですか!? 俺、何か怒らせるようなことしましたか!?」
「してないしてない。文字通りの意味だよ。私が君に教えられる基礎的な技術は、もう全て教え尽くした。めでたく卒業ってことさ」
リリィさんはケラケラと笑いながら俺の肩をバンバンと叩くが、俺の頭の中は混乱でぐちゃぐちゃだった。
「待ってください! 卒業って言われても、俺、まだ『こいつ』を完全に使いこなせていませんよ!? 剣の形を引き出せるようになっただけで、肝心の彼女はまだ1回も目を覚ましてないじゃないですか!」
俺の抗議に、リリィさんは少しだけ真剣な瞳になって、俺の胸元――『神器』が眠る場所を指差した。
「そこなんだよ、ショウト。これ以上、この安全な森の中で私と木剣を打ち合っていても、君の実力はもう頭打ちだ」
「頭打ち……」
「私の攻撃は確かに重くて速いかもしれないけれど、結局は『修行』の域を出ない。君も心のどこかで『私が相手なら、最悪どうにかしてくれる』と甘えている部分があるはずだ」
リリィさんに図星を突かれ、俺は言葉に詰まった。
確かに、俺がどれだけ全力を出そうとも、リリィさんはそれを平然と受け止め、いなしてしまう。
それが分かっているからこそ、俺は無意識のうちに『命のやり取り』という極限の緊張感から遠ざかっていたのだ。
「君の中に眠るその子はね、多分、平和な訓練なんかじゃ起きないんだと思うよ」
リリィさんは優しく、諭すように口を開いた。
「実戦だよ、ショウト。予定調和の一切ない、血の通った世界での経験。様々な人間と出会い、感情を揺さぶられ、本当の意味で『自分の力で切り抜けなければならない』という切羽詰まった状況。……そういう本物の経験だけが、今の君をさらに上の次元へと押し上げ、彼女を目覚めさせる鍵になるはずだ」
「実戦で、経験を積む……」
「そう。だから、もう教え子の手を取り、足を取って教える時間は終わり。ここから先は、君自身が自分の足で世界を歩いて、答えを見つけてきなさい」
リリィさんの言葉は、どこまでも正論だった。
俺自身、この数年の修行を通じて、自分の実力が高まっている実感はあるものの、同時に『何かが足りない』というもどかしさをずっと抱えていた。
それが『外の世界での経験』だと言われれば、なるほど、しっくりとその言葉に納得するしかなかった。
「……でも、いきなり実戦って言われても。俺、ずっとこの森と近くの村にしか行ったことがないんですよ? 当てなんて何も……」
不安を隠しきれない俺を見て、リリィさんとクレスさんは顔を見合わせ、ふふっと笑った。
「その心配はいらないよ。私から、君の初めての旅にふさわしい目的地を提案してあげよう」
「目的地、ですか?」
リリィさんはビシッと東の空を指差した。
「この森を抜けた先にある大きな国、『アドレイア王国』の王都だ。あそこにはね、君の抱える『神器』について、私なんかよりもずっと詳しくて、具体的な助言をくれる凄腕の知り合いがいるんだよ」
「『神器』に詳しい人が……王都に!?」
その言葉に、俺の胸は大きく高鳴った。
ずっと眠り続けている『こいつ』を起こす方法。それが分かるかもしれないというのなら、行かない理由はない。
「そう。だからまずは、その人に会うことを目標にして旅に出てみなさい。道中で起きる様々なトラブルも、君にとっては最高の『経験』になるはずだからね」
リリィさんの提案に、俺は決意を固めるようにギュッと拳を握りしめた。
いつかはこの森を出て、自分の力で生きていかなければならない。そのための数年間の修行をしてきたはずだ。
ずっと胸の奥で密かに燻っていた『未知なる世界への好奇心』と『自分の力を試してみたいという欲求』が、フツフツと湧き上がってくるのを感じる。
「……分かりました。リリィさん、俺、行きます」
真っ直ぐにリリィさんを見つめ返して答えると、リリィさんは我が子の成長を見るような、とても優しい笑顔を浮かべた。
この異世界に迷い込んだ、ただの子供だった俺が、魔法と剣を修め、本当の意味でこの異世界に足を踏み出す。
数年間に及んだ過酷で温かい『修行の日々』が終わりを告げ、ここからついに俺自身の物語が始まろうとしていた。
――「あなた、なぜこれくらいのことができないのです」
――「申し訳ございません、お母様……」
――「はぁ、もうよろしい。今日は部屋でお休みなさい」
――「……っ!? お母様!? 申し訳ございっ」
――「なにをしているの、早く部屋に戻りなさい」




