第11話:『力』を持つ責任、師匠としての優しさ
長い修行の末に『身体強化』をようやく成功できた俺は、完全に有頂天になっていた。
「すげぇ……! なんだこれ、マジで体が羽みたいに軽い……!」
ピョン、と軽くステップを踏むだけで、数メートル先の地面へと滑るように移動できる。
試しに訓練場の隅にあった手頃な丸太を持ち上げてみると、まるで発泡スチロールの作り物でも持っているかのように、何の抵抗もなく軽々と持ち上がってしまった。
元の世界ではインドア寄りの平凡な高校生だった俺の運動能力とは、明らかに次元が違う。
「ははっ、これならもしかして……!」
俺は丸太を置き、足元に落ちていた親指大の硬い小石を拾い上げた。
『身体強化』を込めた右手にグッと力を込める。
バキッ、メキメキッ……!
「……うおおっ!」
信じられないことに、ただの握力だけで石は脆いビスケットのように砕け散り、俺の手のひらからポロポロと破片がこぼれ落ちた。
自分の手がまるで万力にでもなったかのような全能感に包まれる。
これなら、絶望的な脅威でしかなかったあの森の魔物とも、対等以上に渡り合えるんじゃないか。そんな根拠のない自信がふつふつと湧き上がり、完全に調子に乗っていた。
「見ましたか、リリィさん! クレスさん! 俺、石を粉々に……!」
俺が興奮冷めやらぬ声でリリィさん達の方を振り返った、その瞬間だった。
――ヒュッ、と。周囲の空気が、一瞬にして凍りついた気がした。
「……え?」
小鳥のさえずりも、風が木の葉を揺らす音も、全てが唐突に途絶えた。
まるで、世界そのものが息を潜めたような異様な静寂。
そして、それに遅れてやってきたのは、心臓を直接鷲掴みにされたかのような、息が詰まるほどの『圧倒的な重圧』だった。
「が、はっ……!?」
まともに立っていることすらできず、俺はその場に両膝から崩れ落ちて地面に手をついた。
冷や汗が全身から一気に噴き出す。心臓が早鐘を打ち、本能が「これ以上動けば死ぬ」とけたたましい警鐘を鳴らしていた。
ギリ、ギリ、と軋む体に、俺は無理やり首を上げて前を見る。
そこには、先程までのんきにクッキーを頬張っていたはずのリリィさんが立っていた。
だが、それは俺の知る『のんびり屋の師匠』などではなかった。
感情を一切読み取れない翡翠の瞳。見下ろすその姿は、まるで絶対的な強者が羽虫を見るような、恐ろしく冷酷で、底知れない凄みに満ちていた。
「……調子に乗るのは、そこまでにしておきなさい。ショウト」
静かな、けれど脳髄に直接響くような有無を言わせない冷たい声。
それが、俺を助けてくれた恩人であるリリィさんの口から発せられているという事実が、何よりも恐ろしかった。
「い、いきなり……なに……」
「突然手に入れた力に呑まれて全能感に酔うのは、初心者が必ず通る道だ。……だけど、勘違いしないでね」
リリィさんはゆっくりと歩み寄り、俺の目の前でしゃがみ込んだ。
そして、俺が先程まで石を砕いていた右手を、ガシッと強く掴み上げる。
「身体強化は、己の限界を強制的に引き上げる便利な技術だ。だけど、それは同時に『自分の本来の出力の加減を見失う』ということでもある。……その力を持ったまま、もし君が、無意識に誰かの手を握ったらどうなる?」
「あ……」
俺の脳裏に、ボロボロと崩れ落ちた小石の残骸がフラッシュバックした。
「力加減を少しでも間違えれば、その小石のように、君が守りたかったはずの他人の骨や肉が弾け飛ぶんだよ。それどころか、魔力の制御を誤ると君自身の四肢すら吹き飛ぶ危険性がある」
淡々と語られる残酷な事実に、俺は自分の右手が急に恐ろしい凶器に思えて、ガタガタと震え始めた。
そうだ。俺はただの高校生で、人を傷つけたことも、傷つけることを考えたこともまるでなかった。
けれど今、俺の手には、たやすく命を奪えるだけの『力』が宿ってしまっているのだ。
「力を持つということは、それだけ重い責任と、繊細な自制心を背負うということだ。それを忘れて力に振り回されるようなら……ショウト、君の修行は今日で終わりにする」
リリィさんの言葉には、一切の妥協も温情もなかった。
本気で俺を案じてくれているからこそ、そして、命を奪うことの重さを誰よりも知っているからこその、師匠としての『警告』。
俺は震える奥歯をグッと噛み締め、彼女の翡翠の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……分かり、ました。俺……調子に乗ってました。ごめんなさい」
「ふむ、力の使い方を絶対に間違えたりしない?」
「はい。絶対に……自分の力を、過信しません」
俺が絞り出すような声で誓うと、その言葉の真意を推し量るように沈黙が流れる。
不意に、俺の全身を押し潰していたあの恐ろしい重圧が、嘘のようにフッと霧散した。
「……うん。分かればよろしい」
恐る恐るリリィさんの方を見上げると、そこにはいつもの、少しおどけたような優しい笑顔を浮かべるリリィさんがいた。
彼女は俺の右手を離すと、まだ地面にうずくまる俺の頭をポンポンと優しく撫でた。
「脅かすような真似をしてごめんね。でも、これは絶対に忘れないでほしかったんだ。ショウトは優しい子だから、自分の力で誰かを傷つけたら、きっと立ち直れなくなっちゃうからね」
「……はい」
俺は地面にへたり込んだまま、全身の緊張を解くように深く息を吐き出した。
たった数秒の出来事だったはずなのに、何時間も全力疾走したかのような疲労感に襲われる。
「さすがはリリィ様。見事な教育的指導ですね。……さて、ショウト様が現実に戻られたところで、次はその力を『制御する』訓練に移りましょうか」
今まで全く気配を感じていなかったクレスさんが、どこからともなく大量の生卵が入ったカゴを持って現れた。
「え、生卵?」
「はい。身体強化を行った状態のまま、この生卵を1つも割らずに隣のカゴへ移動させてください。少しでも魔力の加減を間違えれば……どうなるか、お分かりですね?」
淡々と説明するクレスさんの眼鏡がキラリと光る。
俺は自分の手と生卵を交互に見比べ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
気を引き締め直し、ようやく手に入れた『力』を使いこなすために、果てしない反復練習へと足を踏み入れるのだった。




