戦雲の京、神域の呻き
元治元年、七月。
京の都は、池田屋の変以来、最悪の緊張感に包まれていた。
連日のように届くのは、長州藩の大軍が京の境界に集結しつつあるという報。じりじりと焼き付くような真夏の陽光が、人々の焦燥をさらに煽っている。
「……表の火種は、もはや抑えきれん。明日には、ここ蛤御門が血の海に沈むだろうよ」
御所を警護する会津・薩摩の兵たちが殺気立つ中、物陰で独り、煙管を燻らせる男がいた。新選組副長・土方歳三である。
その背後から、草履の音もなく一人の男が歩み寄る。
「トシ、そんな仏頂面してると、戦う前に顔が凝り固まっちまうぜ」
土御門 凱夜だ。漆黒の着物を乱れさせ、二本の刀を腰に差した姿は、神聖なる御所の近くにあって、あまりにも不遜で異質だった。
「……凱夜か。貴様を呼んだのは、酒を飲むためじゃない」
土方は視線を御所の重厚な門へと向けた。
「聞こえるか。……風の音が、おかしな鳴り方をしてやがる」
凱夜は煙を吐き出し、目を細めた。
常人には見えぬが、御所の空を覆う「四神相応」の結界に、どす黒い亀裂が走っている。そこから漏れ出しているのは、この世の者ならざる怨嗟の声だ。
「ああ、聞こえるぜ。御所の下に眠る古の龍が、外道に喉元を噛まれて喘いでやがる。……池田屋の時とは比べものにならねえ、特大の『呪い』が仕掛けられてやがるな」
「長州の野郎どもは、御所を焼いて主上を連れ去るつもりだ。だが、その混乱に乗じて、国そのものの『柱』を折ろうとする奴がいる。……例の、芦屋だ」
土方の言葉に、凱夜の瞳に冷徹な黄金の光が宿る。
芦屋道魄。
あの男の狙いは、単なる政権争いではない。御所というこの国の霊的な心臓部を破壊し、平安の世から続く呪術的秩序を解体することにある。
「わかってる。……俺の女たちが、もう鼻をヒクつかせてやがるからな」
凱夜が合図を送ると、影の中から三人の美女が姿を現した。
九尾の狐・夕霧。絡新婦・緋糸。そして、新たに加わった猫又・お凛。
それぞれが京の闇を象徴する強力な怪異であり、凱夜に心身ともに屈服した愛妾たちだ。
「凱夜様、御所の奥……『清涼殿』のさらに奥底から、守護獣たちの悲鳴が届いておりますわ。あの子たち、もう限界のようです」
夕霧が扇で口元を隠し、懸念を露わにする。
「お凛の鼻にも、道魄のジジイの腐った匂いがこびりついてる。……今度は、池田屋の時みたいにはいかないよ。国ごと焼き尽くすつもりだ、あの野郎」
お凛が鋭い爪を立て、低く唸る。
凱夜は土方の肩を叩いた。
「トシ、表の長州兵はてめえらの刀で黙らせな。俺は、その裏で国を腐らせようとするゴミ共を、神速で掃除してきてやるよ」
「……しくじるなよ、凱夜。貴様が負ければ、明日にはこの国という形そのものが消えてなくなるかもしれん」
「くかか、違いねえ。だが安心しろ。俺の神速は、国を壊すためじゃねえ……最高の寝床を守るためにあるんだからよ」
凱夜はそう言い捨てると、夕霧たちを従えて、一般の立ち入りが禁じられた御所の深奥へと、風のように消えていった。
夜の帳が下りる。
蛤御門の向こう側で、数万の軍勢が息を潜める中、御所の神域では、国の命運を賭けたもう一つの、そして最も凄惨な「闇の戦い」の幕が上がろうとしていた。




