狂える双獣、結界の崩壊
御所の深奥、一般の立ち入りが厳しく禁じられた聖域。そこは、京の都を千年以上守り続けてきた「四神相応」の霊的中心地であった。
しかし、凱夜が足を踏み入れたその場所は、もはや神聖な静寂など微塵も残っていなかった。
「……ひどい有様ね。大気が腐りかけているわ」
夕霧が鼻を突き、不快げに眉をひそめる。
本来、清浄な霊気が満ちているはずの空間には、どろりとした黒い霧が立ち込め、地面からは異国の怨霊たちの呻きが染み出している。
「……凱夜様、あそこです。結界の楔となるべき御霊が、闇に呑み込まれています」
緋糸が指し示した先――御所の守護を司る「阿吽の対」が鎮座する祭壇の上。
そこにいたのは、かつての威厳を失い、血の涙を流して悶え苦しむ二人の少女であった。
狛犬の精霊、阿と吽。
白銀の髪を持つ姉の阿と、漆黒の髪を持つ妹の吽。彼女たちの背中には、道魄が打ち込んだ「国を呪い殺す杭」が深く突き刺さり、そこから溢れ出す呪力が彼女たちの神性を猛獣のような狂気へと塗り替えていた。
「グルルル……ッ! 殺ス……、全テ……壊シテ……還ス……!」
阿が、獣のような咆哮と共に地を蹴った。
その踏み込みは凄まじく、一瞬で凱夜の眼前へと肉薄する。神の使いとしての膂力に道魄の呪いが加わり、その一撃は岩をも粉砕する破壊力を秘めていた。
「おっと……。神様がそんなに牙を剥いじゃ、可愛げがねえぜ」
凱夜は神速の身のこなしで拳をかわすが、直後、妹の吽が背後から影を縫うように襲いかかる。
二人による、寸分の隙もない波状攻撃。
「お凛、緋糸! 雑兵を片付けな! こいつらは俺が引き受ける!」
「了解だよ、凱夜様! 猫に火をつけさせたこと、後悔させてやる!」
「蜘蛛の巣からは、誰も逃げられません……」
お凛が放つ青白い火炎と、緋糸が張り巡らす無数の銀糸が、道魄の呼び出した異国の悪鬼たちを迎え撃つ。
戦火の上がる蛤御門の方角から、空を焦がすような殺気が流れ込み、それが祭壇の呪いをさらに加速させていく。
「あァ、熱イ……、身体ガ……溶ケル……ッ!」
阿と吽の身体から、赤黒い光が噴き出した。
彼女たちが完全に魔物へと堕ちれば、御所の結界は内側から爆ぜ、この国を支える「理」が消滅する。
「泣くんじゃねえ、小娘。……お前たちのその『熱』、俺が全部受け止めてやるよ」
凱夜は刀を鞘に納めたまま、敢えて無防備に両腕を広げた。
暴走する神の力を前にして、死神と謳われた男が浮かべるのは、どこまでも不敵で、そして慈悲深い笑みであった。
「……来な。地獄の門を開く前に、俺の腕の中で眠らせてやる」
狂乱する二人の少女が、凱夜の胸元へと突き進む。
神域の闇が最も深まった瞬間、凱夜の漆黒の霊圧が、太陽のように激しく膨れ上がった。




