六月の熱気と、震える獲物
元治元年、六月初旬。
京の都は、肌に張り付くような湿気と、爆発寸前の不穏な熱気に包まれていた。
「御所を焼き、中川宮を拉致し、長州へ連れ去る……か。連中、いよいよ正気を失くしてやがるな」
壬生の新選組屯所。土方歳三は、届いたばかりの密偵の報告書を握り潰した。京の街を灰にするという過激派浪士たちの放火計画。そのあまりの無謀さと凶行の気配に、土方の眼光は剃刀のような鋭さを増していた。
だが、土方が真に危惧しているのは、志士たちの刀だけではない。
その陰謀の裏側で、人の理を外れた「闇の力」が蠢いていることを、彼は経験から知っていた。
同じ頃、島原。
夕霧の住まう置屋の一室では、別の「熱気」が渦巻いていた。
「……っ、はぁ……たす、けて……」
血の匂いをさせて、凱夜の足元に転がり込んできたのは、一匹の異形の猫であった。
いや、ただの猫ではない。尾が二つに分かれ、金色の瞳には理性の火が灯っている。名はお凛。京の路地裏を縄張りとする、誇り高き猫又である。
だが、今の彼女にその面影はなかった。
自慢の毛並みは焼け焦げ、背中には黒い杭のような呪具が深々と打ち込まれている。
「おいおい、どこの誰にそこまで毛を毟られたんだ。色気が台無しじゃねえか」
凱夜は、酒を煽りながら不敵に笑い、お凛の細い顎を指先で持ち上げた。
お凛は痛みと屈辱に瞳を揺らしながら、凱夜の漆黒の着物に縋り付く。
「……道魄。芦屋道魄が……私の妹たちを、奪ったの……」
「道魄だと?」
凱夜の瞳から、酒の酔いが一瞬で霧散した。
先日、廃寺で対峙した、あの陰湿な裏陰陽師の名。
「あいつ、妹たちを『火種』にすると言ったわ……。長州の志士たちが決起の叫びを上げる時、その熱狂を吸わせて、京の街を焼き尽くす紅蓮の炎に変えると……! 私、止めようとして……でも……」
お凛の身体が激しく痙攣する。背中の呪具から黒い煙が立ち上り、彼女の命を蝕み始めていた。
「なるほどな。トシの言ってた放火計画の『種明かし』ってわけだ。志士たちに火をつけさせるんじゃねえ。志士たちの殺気を燃料にして、この猫を爆弾にするって寸法か」
凱夜は立ち上がり、お凛を抱き上げた。
その瞬間、部屋の隅で控えていた緋糸が、銀の糸を指先に走らせて跪く。
「凱夜様……。あの娘の身体、異国の魔力が逆流しています。このままでは、彼女自身が灰に……」
「わかってる。夕霧、お前はこの猫を預かれ。……緋糸、行くぞ」
凱夜は腰の二本の業物を確かめ、不敵に口角を上げた。
「俺のシマで勝手に火遊びを始めようってなら、その火ごと飲み込んでやるのが土御門の流儀だ」
「凱夜様……どうか、妹たちを……!」
お凛の悲痛な叫びを背に、凱夜は夜の闇へと躍り出た。
湿った風の向こうから、鉄と油の匂いが漂ってくる。
その匂いの中心は――三条小橋付近。
新選組が志士たちの潜伏先を血眼で探しているその裏側で、凱夜は、怨念と呪力が渦巻く「池田屋」の地下へと続く、闇の結界を捉えていた。
「神速で片付けるぜ。……夜が明ける頃には、また新しい『家族』が増えてるだろうからな」
凱夜の影が、月光を置き去りにして加速した。
幕末の歴史を揺るがす「六月五日」の夜が、すぐそこに迫っていた。




