亡霊の海峡、氷の道標
会津を脱した凱夜一行は、新政府軍の追っ手を神速で振り切り、本州北端の三厩へと辿り着いた。本来であれば、ここから蝦夷までは目と鼻の先。しかし、目の前に広がる津軽海峡は、道魄の放つどす黒い霊障に蝕まれ、もはや生者の渡れる海ではなかった。
「……ありゃあ、ひどいな。海が完全に死んでやがる」
凱夜が目を細めて睨んだ先、海面は粘液のような霧に覆われ、亡霊艦隊が墓標のように突き出している。さらに沿岸には、道魄の「薬」で理性を失い、傀儡と化した地元藩の強化兵たちが、濁った瞳で一行を待ち構えていた。
「凱夜様、あの霧の向こうから、恐ろしい数の『死の誘い』が聞こえますわ。船を出せば、一瞬で海底へ引きずり込まれます」
夕霧が不快そうに顔を顰め、九つの尾を広げる。波間からは、白くふやけた亡者の腕が、執拗に海面を叩いていた。
「くかか、道魄のジジイ、海峡全体を『生きた墓場』にしやがったか。――阿、吽。お前たちの出番だ。その力、俺に見せてみろ」
凱夜が低く、信頼を込めた声で呼びかけると、左右の影から二人の可憐な少女が姿を現した。紅い髪の阿と、紺色の髪の吽。彼女たちは、かつて凱夜がその情愛を持って抱き、身も心も結ばれたことで、単なる守護獣を超えた存在となった女たちであった。
「……うん。あいつら、阿が全部噛みちぎってあげる」
「……吽も。凱夜様のためなら、何だって、する」
二人は凱夜の傍らに寄り添い、慈しむような眼差しを向ける。だが、ひとたび敵を見据えれば、その瞳には愛する男を邪魔立てする者を一切許さぬ冷酷な殺意が宿る。彼女たちの背後には、天を衝くほどの巨大な守護鬼の幻影が、牙を剥いて顕現した。
「白雪、出番だぜ。この不浄な波ごと、凍らせて道を作れ」
「はい、凱夜様。……この汚れきった海に、真冬の静寂を」
白雪が船首に立ち、白磁の両手を広げた。彼女が鋭く息を吐くと、船の進路に立ち塞がる亡霊船や、海面から伸びる無数の腕が、轟音と共に瞬時に凍結していく。ダイヤモンドよりも硬い氷の道が、暗黒の海を切り裂くように蝦夷へと伸びた。
「邪魔よ! 凱夜様の行く手を塞ぐなーっ!」
阿が氷の道を蹴って跳躍した。その小さな体からは想像もつかない咆哮が放たれ、不可視の衝撃波が敵の亡霊船を木端微塵に粉砕する。吽は静かに海面を見つめ、影から無数の黒い棘を噴出させた。海中から船底を狙っていた亡者たちは、その棘に貫かれ、悲鳴を上げる間もなく霧へと還っていく。
「あたしの火遊びに、ちょっと付き合いなさいよ!」
「ふふ、銀の糸で、素敵に飾り付けてあげますわ」
お凛の青い鬼火が敵の砲台を焼き払い、緋糸の銀糸が霧の中に潜む亡霊船の帆を絡め取って、同士討ちを誘発させる。凱夜の愛を受けた女たちが、その恩愛に応えるべく、競い合うようにして敵を殲滅していく。
凱夜は舵を握り、神速の加速を維持しながら、行く手を遮る巨大な「亡霊の王」の幻影に対し、漆黒の刀を抜いた。
「土御門流神速抜刀・零ノ型――『冥河断ち』」
一閃。
空間を割る衝撃波が、海面を覆う呪いの霧と、亡霊たちの怨嗟を真っ二つに切り裂いた。阿と吽を左右に侍らせ、氷の道を滑走する小船は、物理的な法則を無視した速度で、本州を置き去りにしていく。
「……トシ、待たせてるな。土産に道魄の首を持ってってやるぜ」
極寒の風が、凱夜の漆黒の羽織を激しくなびかせる。阿と吽は凱夜の腕の中に収まるようにして、その猛々しい体温を確かめながら、満足げに北の空を見上げていた。
黒い霧の向こう側、雪に閉ざされた蝦夷の大地が、その厳しくも険しい姿を現し始めていた。




