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神速の陰陽師 〜幕末艶武伝〜  作者: 風花
第九章:凍れる魂の再生、北進する死神の影
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箱館からの風、道魄の胎動

 廃寺の静寂を破ったのは、阿が発した低い唸り声だった。

 凱夜が濡れた縁側へ出ると、そこには雨に打たれ、泥にまみれた一人の男が立っていた。かつて江戸で土方と共に戦った、新選組の残党の一人だ。男は、凱夜の放つ凄まじい威圧感に気圧されながらも、懐から潮の香りが染み付いた一通の書状を差し出した。

「……凱夜さん。土方さんからの伝言だ。榎本閣下と共に、俺たちは蝦夷地へ渡った」

 男の指は凍傷で黒ずみ、瞳には極限状態を生き抜いた者特有の、縋るような光が宿っている。

「既に箱館・五稜郭を占領した。あそこを、武士たちの最後の理想郷とする。……あんたの力が必要だ、と」

「理想郷、か。トシらしい夢想だぜ」

 凱夜は書状を広げた。そこには、箱館の峻烈な気候と、新たな戦いへの高揚感が土方らしい筆致で綴られていた。だが、凱夜の目を引いたのは、文末に殴り書きされた不穏な一節だった。

『――追伸。蝦夷の山々に、見たこともない黒い雪が降っている。アイヌの古老たちが「カムイの呪いだ」と怯えている。凱夜、貴様の専門分野だろう。早めに来い。……待っているぞ』


「黒い雪……」

 凱夜がその言葉を呟いた瞬間、廃寺の周囲の空気が、キィィィンと耳鳴りのような高周波を立てて震えた。

 北の空――遥か蝦夷の地から、大地を伝ってどす黒い霊的圧力が押し寄せてきたのだ。それは、道魄が会津で失った肉体を補うため、蝦夷の大地に眠る荒ぶる神々の力や、開拓の犠牲となった者たちの無念を強引に引き出そうとしている証左だった。

「……っ、何……この嫌な寒気。会津の時とは、質の違う不浄を感じるわ」

 粥を啜り、ようやく顔を上げた夕霧が、顔を青くして北の空を睨んだ。

 彼女の九つの尾が、本能的な危険を察知して針のように逆立つ。お凛や白雪も、その不気味な気配に、介抱でようやく温まりかけた体を再び震わせた。

「道魄のジジイ、本州を捨てて蝦夷を『腐った苗床』に変えるつもりだ。あの大地そのものを巨大な呪いの陣に仕立て上げりゃ、日本中の生命力エネルギーをあそこから吸い尽くせる」

「そんなこと……させられませんわ」

 白雪が、凱夜の漆黒の羽織をぎゅっと握りしめ、立ち上がった。その足取りはまだ覚束ないが、瞳には「兵器」としてではない、一人の女としての強い意志が宿っている。

「あの子たちが命を懸けて守りたかったこの国を……あの化け物に食い散らかさせたくない。凱夜様、わたくしも行きます。北の海が凍りつこうとも、わたくしの氷で道を切り拓きます」

「あたしも行くわ! 飯盛山での借りを、あのアホンダラに返してやらないと、一生寝覚めが悪いですもの!」

 お凛が、ぴんと猫耳を立てて叫んだ。その瞳にはまだ涙の跡が光っているが、奥に宿る鬼火は以前よりも熱く、熾烈に燃えている。

「あたしたち、いつまでも泣いてるだけの弱い女じゃないわ。……次は必ず、あたしが道魄の首を引っ掻き切ってやるんだから!」

 緋糸もまた、銀糸を指に絡めて音もなく立ち上がり、静かに、だが殺気に満ちた眼差しを北へと向けた。女たちが再び立ち上がる姿を見届け、凱夜はふっと不敵な笑みを浮かべた。

「……ふん、ようやく目が覚めたようだな。女の涙は、もう会津の山に置いてきたか。阿、吽! 準備しろ。船を出すぜ」

 凱夜は柱に立てかけていた漆黒の刀を腰に差し直し、黄金の瞳を爛々と輝かせた。

「新政府軍の海上封鎖なんて、俺たちの神速で突き破ってやる。道魄の喉笛、蝦夷の雪ごと真っ二つにしてやるぜ」

 雨はいつの間にか雪へと変わり、廃寺を白く、静かに染め始めていた。

 少年たちの墓標がある南へ一度だけ一礼し、死神とその従者たちは、最後の決戦場――箱館を目指し、北の荒野へと駆け出した。


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