狂乱の銀糸、神速の抱擁
廃寺の大殿は、もはやこの世の光景ではなかった。
天井から床までを埋め尽くす無数の銀糸が、月光を反射して怪しく光る。それは美しいレースのようでもあり、一度捕らえれば二度と逃さぬ地獄の網でもあった。
「あ、あ、あああああッ!!」
緋糸の絶叫が、湿った夜気を震わせる。
彼女の背に刻まれた異国の呪印が、赤黒い脈動を強めるたび、その指先から放たれる糸は鋭さを増していく。シュ、という短い風切り音と共に放たれた一本の糸が、凱夜のすぐ脇にあった太い円柱を、豆腐でも切るかのように易々と両断した。
「なるほど。ただの蜘蛛の糸じゃねえ、空間の『隙間』を通ってやがるのか」
凱夜は不敵に笑いながら、飛来する糸の嵐の中を舞うように進む。
普通であれば、視認不可能な速度で迫る糸に触れた瞬間、肉体は細切れにされるだろう。だが、凱夜の動きはそれを上回っていた。
「神速」――。
それは単なる足の速さではない。自身の霊力を爆発的に燃焼させ、周囲の時間の流れを極限まで引き延ばす、土御門の禁術に近い歩法。
凱夜が踏み込むたび、床の板張りが霊圧に耐えかねて爆ぜ、背後の空間が遅れて震動する。
「……あ、こ、来ないで……食べたくない……貴方を、殺したくない……!」
緋糸の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。理性が狂気に塗り潰されながらも、彼女の心は必死に抗っていた。彼女にとって、糸は本来、愛する人のために布を織るための「絆」だったはずだ。それが今や、触れるものすべてを破壊する凶器へと成り果てている。
「わかってるぜ、お嬢ちゃん。……お前が本当に求めてるのは、血じゃねえ。……凍えた心を温めてくれる、男の体温だろ?」
「うるさいッ!!」
緋糸の背後から、蜘蛛の脚が槍のように突き出される。同時に、逃げ場を塞ぐようにして、四方八方から網が収束した。
完全な死角。逃げ場のない絶命の檻。
だが、凱夜は刀を抜かなかった。
「――土御門流・縮地」
ドォン! という衝撃音と共に、凱夜の姿が消えた。
物理限界を超えた加速。収束する糸の網が閉じるよりもわずかに早く、凱夜はその「中心」へと潜り込んだのだ。
「なっ……!?」
驚愕に目を見開く緋糸。
彼女の目の前には、至近距離で不敵に笑う凱夜の顔があった。
凱夜は彼女の八本の脚を、自らの屈強な腕で強引に抑え込み、その震える体を力強く抱きしめた。
「が、はっ……あ……!」
「……いいから、俺に預けな。その呪いごと、俺が飲み込んでやるよ」
凱夜の全身から、凄まじい密度の霊圧が溢れ出す。それは暴力的なまでの熱量を持った「色気」であり、妖怪を平伏させる王の威厳でもあった。
凱夜の指先が、緋糸の項から背中へと這う。呪印が刻まれたその場所に触れた瞬間、ジジジ……と肉が焼けるような音が響き、異国の魔力が凱夜の霊力と衝突して火花を散らした。
「……熱い、熱いよ……体が、燃える……!」
「ああ、燃やしてやるさ。その汚ねえ術式だけをな」
凱夜は緋糸の唇を強引に奪った。
ただの口づけではない。それは、彼女の体内に渦巻く狂気を、自らの霊力で「中和」し、引き抜くための儀式。緋糸の体が大きくのけぞり、背中の呪印が限界まで赤く輝く。
「――今だ。邪魔な『外枠』を掃除させてもらうぜ」
凱夜は抱きしめたまま、右手を腰の刀へと伸ばした。
まだ、一歩も引いていない。抱き寄せ、密着したまま、その超近距離で抜刀術を放とうというのだ。
「土御門流神速抜刀・零ノ型――『無影』」
閃光すら残らぬ、一閃。
凱夜が刀を鞘からわずか三寸引き、戻した瞬間。
緋糸を捕らえていた周囲の銀糸の網、そして彼女の背後にそびえていた巨大な仏像、さらには廃寺の天井までもが、一筋の線となって断ち割られた。
「……あ……ああ……」
背中の呪印が剥がれ落ちるように霧散していく。
緋糸の瞳から赤黒い光が消え、深い藍色の瞳が戻ってきた。彼女の下半身の蜘蛛の脚が、淡い光と共に消え去り、柔らかな人間の足へと変わっていく。
「助けたんじゃねえ。……今日からお前は俺の所有物だって、契約しただけだ」
凱夜は、力なく崩れ落ちる全裸の緋糸を、その逞しい胸板で受け止めた。彼女の細い肩を抱き寄せ、その耳元で低く、甘く囁く。
「どうだ。……化け物として死ぬより、俺の女として生きる方が、悪くねえだろ?」
緋糸は、まだ夢を見ているような心地で凱夜を見上げた。先ほどまでの恐怖は消え、代わりに経験したことのないような熱い疼きが、彼女の胸の奥で疼き始めていた。
「……はい。……私を、貴方の好きに……して……」
緋糸が凱夜の首に腕を回したその時、大殿の闇の向こうから、冷ややかな拍手の音が聞こえてきた。
「――素晴らしい。実に素晴らしい。土御門の出来損ないが、まさか『抱擁』一つで私の呪印を相殺するとは。野蛮極まりないが、それゆえに効果的だ」
暗がりの奥から、一人の男がゆらりと姿を現した。
白い狩衣をだらしなく着崩し、手には黒い扇。その顔打ちは貴族的で整っているが、瞳には一切の光がなく、底知れない悪意だけが渦巻いている。
「その顔……。ただの野良陰陽師じゃねえな」
凱夜は緋糸を片腕で抱き寄せたまま、もう片方の手を刀の柄に置く。
男は冷笑を浮かべ、扇で自身の口元を隠した。
「土御門の者が、我が一族の名を忘れたか? ……私は芦屋道魄。古の宿命に導かれ、この幕末の動乱を呪いという名の機織りで彩る者だ」
「芦屋……道満の末裔か。道理で術の匂いがドブ川のように臭うわけだぜ」
凱夜の挑発にも、道魄は表情一つ変えない。彼は足元に転がっている「剥がされた呪印」の残骸を冷たく見下ろした。
「せっかくの『実験体』を台無しにされたのは遺憾だが……まあいい。倒幕の志士たちに捧げるための怪異など、いくらでも代わりはいる。それよりも凱夜、貴様のその『神速』……。いずれ我がコレクションに加えさせてもらうぞ。その時は、その隣の女のように、中身をすべて入れ替えてやろう」
「抜かせ。俺の女に指一本触れてみろ。……その時は、道満の血筋ごとこの世から削り取ってやる」
「ふふ……。今夜は挨拶だ。精々、その人非人の巣床で、妖相手の情事でも愉しんでいるがいい」
道魄の姿が、黒い霧のように揺らぎ始める。
凱夜が踏み込もうとした瞬間、寺の至る所に仕掛けられていた爆破の呪符が起動した。
「チッ……!」
凱夜は緋糸を抱き上げ、爆炎が広がる廃寺から神速で飛び出した。
背後で崩れ落ちる大殿を見つめながら、凱夜の腕の中で緋糸が小さく震える。
「凱夜様……」
「安心しろ。あんな陰気な野郎に、二度とお前を触らせやしねえ」
夜空に浮かぶ月は、不気味なほどに赤く染まっていた。
宿敵・芦屋道魄との再会。そして、新たな「家族」となった緋糸。
幕末の闇を巡る戦いは、まだ始まったばかりであった。




