九尾の密談、狂おしき銀糸の罠
新選組・土方歳三との密談を終えた凱夜が向かったのは、華やかな灯りが揺れる島原の一角――その中でも、一見さんお断りの格式を誇る置屋『朧月』であった。
京の夜を彩る喧騒は、倒幕の機運に怯える人々の最後の狂奔のようにも見える。だが、凱夜がその暖簾を潜り、奥へ進むにつれて、世俗の騒がしさは奇妙なほどに遠ざかり、代わりに肌を刺すような濃密な「霊気」が空間を支配し始めた。
最奥の座敷。
香炉から立ち上る白檀の煙が、幻影のように揺らめいている。
その煙の向こう側、贅を尽くした着物を乱れさせ、朱塗りの長椅子に横たわっているのは、島原でその名を知らぬ者はいない絶世の美女――夕霧であった。
「あら……死神様のお出ましね。今夜はまた、ずいぶんと血生臭い匂いをさせていらっしゃること。壬生の狼たちに、どんな無理難題を押し付けられたのかしら?」
夕霧が赤い唇を綻ばせ、喉を鳴らして笑う。彼女が動くたびに、着物の裾から覗く白い足が、獲物を誘う蛇のように艶かしく動いた。
だが、その背後に揺らめく影は、人間の女性のそれではない。時折、月光に照らされて、九つの巨大な尾を思わせる禍々しい影が障子に映し出される。彼女の正体は、古の時代から生き続ける伝説の怪異、九尾の狐。凱夜とは、互いの命を狙い合った末に、奇妙な協力関係――あるいは「情夫と情婦」に近い関係を結んでいる、この京で最も危険な情報源だった。
「トシの顔を見てきたせいだ。あいつの生真面目な殺気が移っちまったらしい」
凱夜は夕霧の制止を待たず、彼女のすぐ隣にどっかりと腰を下ろした。
夕霧が持っていた象牙の煙管を奪い取り、自ら紫煙をくゆらせる。夕霧はそれを咎めるどころか、楽しげに目を細め、凱夜の太い首筋に指先を這わせた。
「せっかちな人。……でも、その焦れた匂い、嫌いじゃないわ。今夜の獲物は、よほど骨があるのかしら?」
「骨があるかどうかは知らねえが、糸はあるらしい。……例の連続辻斬り、ありゃあただの妖怪の仕業じゃねえ。術の跡が『汚れて』やがる」
凱夜の言葉に、夕霧の瞳に宿る黄金色の輝きが、一瞬だけ鋭く細められた。
彼女は凱夜の肩に顎を乗せ、その耳元で吐息を漏らす。
「お察しの通りよ。祇園の北にある廃寺。かつては由緒正しい寺院だったけれど、今は不平士族や裏の陰陽師たちが、禁じられた『異国の魔』を招き入れるための苗床に成り下がっているわ」
「異国の魔、だと?」
「ええ。彼らは、古くから京に棲みついていた妖たちを捕らえ、その身に西洋の魔術回路を無理やり刻み込んでいるの。……今回の獲物は、緋糸という絡新婦の娘。元々は人間の男に恋をして、ひっそりと機を織りながら暮らしていた、毒の薄い妖だったのだけれど……」
夕霧の指先が、凱夜の胸元に刻まれた古い傷跡をなぞる。
「あの外道ども、彼女の核に呪いの杭を打ち込み、理性を焼き切ったわ。今や彼女は、ただ血を啜り、主の命に従って糸を操るだけの、生ける処刑道具。……可愛そうだと思わない? 凱夜」
「……胸糞が悪りィな。女を道具にするような奴は、どこの国の術だろうが関係ねえ。俺の流儀に反する」
凱夜の纏う霊圧が、一気に重圧を増した。座敷の空気が物理的な圧力を持って軋み、床の間に活けられた花が瞬時に萎れていく。
「くふふ、そうこなくては。……でも気をつけなさい。彼女の糸は、もはやただの糸ではないわ。異国の呪いによって、空間そのものを切り刻む『不可視の刃』へと変貌している。神速のあなたでも、捉えきれるかしら?」
「捉えきる必要はねえ。その糸ごと、抱きしめてやるさ」
凱夜は煙管を灰皿に叩きつけると、夕霧の腰を強引に引き寄せ、その唇を奪った。強引で、しかし確かな慈愛を孕んだ口づけ。夕霧は一瞬目を見開いたが、すぐに蕩けるような溜息をつき、その身を凱夜に預けた。
「……死神のくせに、甘い人ね。報酬、期待しているわよ?」
「ああ。地獄の土産に、極上の酒と女を用意しておけ」
座敷を後にした凱夜は、夜の京を北へと走った。
元治元年の夜風は冷たく、どこか鉄の匂いが混じっている。
祇園を抜け、人家が途絶える辺りまで来ると、周囲の景色は異様な変貌を遂げていた。
道端の石地蔵は、頭から爪先まで銀色の細い糸に巻かれ、まるで白装束を着せられた死体のように立ち並んでいる。頭上の木々からは、粘り気のある糸が垂れ下がり、それが月光を反射して、不気味な蜘蛛の巣の回廊を作り出していた。
(……この先の廃寺か。霊気が歪んでやがる)
凱夜は足を止めず、廃寺の山門を潜った。
かつての栄華を偲ばせる大殿は、今や巨大な蜘蛛の巣に覆われ、まるで巨大な怪物の胃袋のようであった。
「……キチッ……キチチッ……」
闇の奥から、硬い節足が床板を叩く音が響く。
凱夜は不敵な笑みを浮かべ、二本の業物のうち、一振りの柄に手をかけた。
「待たせたな、お嬢ちゃん。……独りでこんな湿気た場所にいちゃあ、肌が荒れるぜ」
返答の代わりに飛んできたのは、三条の銀光。
それはただの物理的な攻撃ではなかった。空間を裂き、因果を無視して凱夜の喉元へと肉薄する、呪いの糸。
「――ほう」
凱夜の体が、一瞬だけ「ブレた」。
「神速」と称される彼の踏み込みは、もはや移動という概念を超えている。糸が喉を切り裂くよりも早く、凱夜はわずか一寸の差でその軌道を回避し、抜刀の構えを取る。
「……あ、あァ……殺して……殺し、て……」
天井の闇から、ずるりと一人の女が降りてきた。
上半身は、白い肌を露わにした妖艶な美女。だが、その下半身は禍々しい八本の脚を持つ巨大な蜘蛛。
その背中には、赤黒く脈打つ不気味な紋様――夕霧が言っていた「異国の呪印」が、神経を侵食するように刻まれていた。
彼女こそが緋糸。狂気に囚われ、涙を流しながらも、その指先は無意識に、さらなる銀糸を紡ぎ出している。
「殺してやるのは簡単だがな。……あいにく俺は、泣いてる女を放っておくと寝つきが悪くなる質なんだ」
凱夜の瞳が、黄金色に燃え上がった。
「土御門凱夜が命ずる。……その汚い鎖を、俺の刃で断ち切ってやる」
闇夜の廃寺に、二つの相容れない霊圧が激突する。
銀糸の雨が降り注ぎ、それを神速の影が切り裂いていく。
凱夜の本格的な「狩り」が、今、始まった。




