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神速の陰陽師 〜幕末艶武伝〜  作者: 風花
第八章:会津の慟哭、白き死神の防波堤
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母成峠、霧のなかの巨獣

 慶応四年八月。会津の空は、抜けるような青空とは裏腹に、死の香りを孕んだ重苦しい湿気に満ちていた。

 新政府軍の圧倒的な大軍が、会津への入り口――母成峠ぼなりとうげへと迫っていた。その数、実に三千。対する会津・新選組・伝習隊の混成部隊は、わずか八百足らず。


「……トシ、この霧の匂い、ただの天候不順じゃねえぜ。血と腐肉の腐った臭いだ」

 母成峠の急峻な尾根に築かれた防塁。凱夜は、黄金の瞳を細めて眼下の濃霧を睨みつけていた。横に立つ土方歳三は、泥にまみれた和泉守兼定を握り締め、冷徹な指揮官の目を崩さない。

「分かっている。薩摩や長州の連中とは違う『何か』が混ざっている。……凱夜、あれだ」

 土方の指差す先、白い霧の向こうから、地響きと共に巨大な影が立ち上がった。

 それは、道魄がかつての戦場からかき集めた数多の戦死者の肉体を、呪術によって継ぎ接ぎして作り上げた「死肉の巨人しにくのきょじん」だった。身長は優に三丈(約九メートル)を超え、無数の腕が、それぞれに錆びついた刀や槍を握りしめている。

「グアァァァァ……!!」

 数千の怨嗟が重なったような、耳を裂く咆哮。

 巨人が一歩踏み出すたびに、会津藩の守備兵たちが恐怖に凍りつき、次々と新政府軍の銃火に晒されていく。物理的な弾丸は、その腐った肉塊に吸い込まれるだけで、巨人の進撃を止めることはできない。

「くかか、道魄のジジイ、会津の山を巨大な墓場に変えるつもりか。……白雪、出番だぜ」

 凱夜の声に応え、背後から一人の女が静かに歩み出た。

 かつては「氷の兵器」として凱夜を殺そうとした白雪。今は凱夜の漆黒の羽織を肩にかけ、その瞳には凍てつく決意が宿っている。

「……はい、凱夜様。この冷え切った亡霊たちに、本当の『終わり』を教えてあげます」

白雪が、白磁のように美しい両手を広げ、霧に向かって吐息を吹きかけた。

 その瞬間、母成峠の斜面が一気に凍りついた。白雪が解き放った絶対零度の冷気が、巨人の足元を地面ごと凍結させ、その動きを数秒間だけ停止させる。


「――神速かぜが通るぜ」

 凱夜が地を蹴った。

 その姿は、周囲の兵士たちの目には「消えた」としか映らない。

 神速の領域に達した凱夜は、重力を無視して巨人の垂直な「肉の壁」を駆け上がった。

「グオォォッ!?」

 巨人の無数の腕が凱夜を捕らえようとするが、それらが凱夜に触れる前に、神速の振動によって肉が弾け飛ぶ。凱夜の目的は、巨人の胸部深くに埋め込まれた、道魄の呪いの核――「怨嗟の心臓」。

「土御門流神速抜刀・弐ノ型――『虚空絶天こくうぜってん』」

 一閃。

 空間そのものを切り刻むような断層が、巨人の巨体を斜めに両断した。

 数千の魂が解放される白い光と共に、肉の塊が崩落し、峠に轟音が響き渡る。

「……やったか!?」

 歓喜の声を上げた会津兵たち。しかし、凱夜の表情は晴れない。


 巨人の残骸の向こう側から、新政府軍の放つアームストロング砲の砲火が、容赦なく防塁を焼き払い始めたからだ。

「……浮かれるな。これはまだ、地獄の入り口だ」

 凱夜は、崩れゆく巨人の肩から華麗に舞い降り、白雪を片腕で抱き寄せた。

 母成峠は突破された。

 会津若松城――鶴ヶ城へと続く血の轍が、今、赤々と塗り替えられようとしていた。


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