虚ろな城、主なき龍の咆哮
慶応三年、晩秋。
徳川慶喜による「大政奉還」という未曾有の政変は、京の都から物理的な火を消した代わりに、人々の心に冷たい「虚無」を投げ込んだ。
二百六十余年、この国を支えてきた徳川幕府という巨大な重石が取り除かれた瞬間、京を覆っていた霊的な秩序は、目に見える速さで崩壊し始めていた。
「……静かなもんだ。トシの野郎も、今頃は自分たちの『正義』のやり場に困って、酒でも煽ってるんじゃねえか?」
凱夜は、もぬけの殻となった二条城を遠くに望む丘の上で、煙管を燻らせていた。
大政奉還によって「主」を失ったのは武士たちだけではない。二条城の地下に眠り、江戸三百年を霊的に支え続けてきた「徳川の龍脈」もまた、その拠り所を失って不気味な震動を始めていた。
「凱夜様、あれをご覧になって。大政奉還を祝う華やかな提灯の裏で、街の気が真っ黒に濁っておりますわ」
夕霧が、不快げに鼻を突く。彼女の狐たちが捉える京の街は、もはや「神州」の品位を失い、飢えた獣たちが食い合う荒野のようであった。
「徳川の三百年という年月が積み上げたのは、繁栄だけではありません。その裏側に積み上げられた『抑圧された怨念』が、慶喜様の政権返上という引き金によって、行き場を失って溢れ出そうとしていますの」
緋糸が天井からではなく、湿った地面に銀糸を這わせながら告げる。その糸は、二条城の地下から噴き出す、どろりとした黒い大気の震動を捉えていた。
「くかか、三百年も貯め込んだ『毒』だ。一気に溢れりゃ、この街どころか国ごとひっくり返るな。……道魄のジジイ、今度はその龍脈に火をつけるつもりか」
凱夜が立ち上がった瞬間、夜の静寂を切り裂いて、凄まじい絶叫が響き渡った。
声の主は、城の警護に当たっていた見廻組の隊士たち。だが、その声は人間のものではなかった。
「……ア、アァ……徳川ノ世……返セ……我ラニ……血ヲ……!!」
闇の中から現れたのは、かつての精悍な武士の姿を留めぬ、異形の集団であった。
薩摩藩の影に潜む道魄が、行き場を失った徳川への忠義を「鬼の薬」で歪め、主を亡くした「狂犬」へと変えさせたのだ。
「凱夜様、左右から来ます! 薩摩の呪術師たちが、龍脈の暴走に合わせて彼らをけしかけていますわ!」
阿と吽が、同時に凱夜の前に飛び出した。
彼女たちの瞳には、二条城を包囲するように張り巡らされた、薩摩の「黒い結界」が映し出されていた。
「……面白い。国が終わり、理が消え、残ったのは飢えた獣だけか。……なら、その獣どもを黙らせる『死神』が必要だな」
凱夜は黄金の瞳を爛々と輝かせ、腰の二本の刀に手をかけた。
新選組でも幕臣でもない、ただ一人の人非人。
徳川三百年の因果が爆ぜる寸前の京で、凱夜の神速が、歴史の闇を再び切り裂こうとしていた。




