餓鬼の咆哮、闇に沈む忠義
竹林に潜んでいた「影」が、月光の下に這い出した。
かつては実直な剣客として新選組の末端を支えていた男の面影は、今や見る影もない。男の喉からは人間らしい声ではなく、獣が骨を砕くような耳障りな唸り声が漏れていた。
「……殺シテ……喰ラワセテ……ク、レ……!!」
男が踏み込んだ瞬間、その足元の土が爆ぜた。人外の筋力を与える道魄の「良薬」は、服用者の精神を磨り潰し、肉体を崩壊寸前の過負荷状態で維持する悪質な呪いだった。
「緋糸。こいつの動きを止めろ。斬るのはその後だ」
凱夜の冷徹な命に、頭上の梁から銀の閃光が降り注ぐ。
緋糸が両手の指を複雑に交差させると、肉眼では捉えきれないほど細く、それでいて鋼よりも強靭な銀糸が、男の両手足に絡みついた。
「無駄ですよ。その糸は、暴れるほどに貴方の肉を深く、優しく食い込みますわ」
緋糸の言葉通り、男がさらに前へ出ようとするたび、銀糸が皮膚を切り裂き、そこから赤黒い毒煙が噴き出す。だが、男は痛みを感じていないのか、糸を引きちぎらんばかりの勢いで凱夜へと牙を剥く。
「阿、吽。……そいつの『核』を見極めろ。どこに毒の杭が打ち込まれてやがる」
凱夜の両脇に控える双子の守護獣が、金色の瞳を鋭く光らせた。
「……凱夜様、左の肺の裏。そこに道魄の呪印が、脈打つ心臓に寄生しています」
「……右の眼窩の奥にも。脳に直接、殺戮の衝動を流し込んでいますわ」
阿と吽の透視が、男の肉体を蝕む呪いの正体を暴き出す。
道魄は、伊東甲子太郎に従う者たちの「新選組への憎しみ」や「新しい世への野心」を苗床にして、生ける屍を作り出していたのだ。
「なるほどな。トシたちが油小路でこいつらを斬る時、この呪いが霧となって周囲の連中をさらに汚染するって寸法か。……反吐が出るほど手の込んだ嫌がらせだぜ」
凱夜はゆっくりと腰の妖刀を抜いた。
漆黒の刃が、周囲の熱を吸い込むように冷たく光る。
「……凱夜……ア、アァ……」
男の瞳から一瞬だけ、かつての理性が覗いた。
恐怖に歪んだその瞳が、救いを求めて凱夜を見つめる。
「……ああ、わかってるよ。てめえの未練ごと、俺が神速で断ち切ってやる」
凱夜の姿が、かき消えた。
神速。
男が瞬きをする間もなく、凱夜は男の背後に立っていた。
二筋の太刀筋が、阿と吽が指摘した「核」を寸分違わず貫き、呪いの供給源を物理的に消滅させる。
「…………がはっ」
男の口から吐き出されたのは、毒煙ではなく、温かい鮮血だった。
銀糸が解け、男の身体がゆっくりと地面に崩れ落ちる。その顔からは不気味な血管の浮き出しが消え、ただの、疲れ果てた一人の武士の死に顔に戻っていた。
「……おやすみな、間抜け野郎。……次の世では、もっとマシな薬を飲みな」
凱夜は刀の血を振り払い、夜空を見上げた。
京の都のあちこちから、同じような「不浄な殺気」が立ち昇り始めている。
油小路での決戦は、もはや避けられない。
「夕霧。……伊東の周りにいる連中、全員がこの毒に冒されてるわけじゃねえな?」
「ええ。藤堂(平助)様のように、純粋な志で動いている方もおられます。……ですが、道魄の狙いは、その純粋な魂こそを『火種』にすることでしょう」
凱夜の黄金の瞳が、一際激しく燃え上がった。
「……面白くねえな。トシが意地を張るなら、俺は俺のやり方で、あのジジイの描いた地獄絵図を真っ向からブチ壊してやるよ」
島原の奥深く、竹林を揺らす風の中に、凄惨な死闘の予感が満ち満ちていた。




