孤高の隠れ里、忍び寄る分裂の影
元治から慶応へ。年号が変わっても、京の街に漂う血の匂いが薄らぐことはなかった。それどころか、幕府の権威に陰りが見え始めるにつれ、守護を担うはずの者たちの間にも、修復不能な「亀裂」が走り始めていた。
御所の事件で土方と真っ向から対立した凱夜は、宣言通り新選組の庇護を離れた。彼がいま拠点を構えているのは、島原のさらに奥、竹林に囲まれた古びた廃寺である。
「……ふん、トシの野郎。今頃は伊東(甲子太郎)とかいう小奇麗な男の扱いに、さぞかし頭を抱えてるだろうよ」
凱夜は縁側に腰掛け、阿と吽に足を揉ませながら、夕霧が淹れた酒を煽っていた。
「凱夜様、屯所の空気はもう末期ですわ。伊東様率いる『御陵衛士』の分離……。それは単なる思想の相違ではなく、新選組という巨大な獣が、自らの肉を食い千切り始めた証拠に他なりません」
夕霧が静かに告げる。彼女の放つ小さな狐たちは、日々、屯所から漏れ出すどろりとした「不和の気」を吸い上げていた。
「それだけではありませんわ、凱夜様。指先に伝わる糸の震えが、ひどく不快に波立っております」
天井の梁に音もなくぶら下がる緋糸が、細い指先で銀糸を弄びながら言葉を継ぐ。
「伊東様の一派に、妙な影が混じっています。道魄の差し金でしょう。彼らが密かに行っている『祈祷』からは、異国の、それも死者の肉を弄ぶような不浄な匂いがいたしますわ。……まるで、内側から腐りゆく果実を眺めているようです」
緋糸の糸は、京の各地に散った元隊士たちの「心の揺らぎ」を、網にかかった獲物の鼓動のように敏感に捉えていた。
「道魄のジジイ、今度は内側から腐らせるつもりか。……トシの奴、武士の意地だ何だと抜かしてたが、身内に毒を盛られてちゃ世話ねえな」
凱夜が吐き捨てた瞬間、竹林の奥から鋭い殺気が飛んできた。
神速。凱夜は動かぬまま、飛来した苦無を二本の指で受け止める。
「……誰だ。俺の晩酌を邪魔する命知らずは」
「……相変わらず、嫌な鼻の良さだ」
竹林から現れたのは、ボロボロの羽織を纏い、顔色の悪い一人の隊士だった。かつての凱夜の知己であり、今は伊東に従って離反しようとしている男だ。だが、その瞳は白濁し、頬には不気味な黒い血管が浮き出ている。
「凱夜……助けてくれ……。伊東先生がくれた『良薬』を飲んでから、体が……。仲間の喉笛を掻っ切りたくて、仕方がねえんだ……!」
男が刀を抜くと同時に、その身から黒い煙が噴き出した。それは、人の志を「飢え」に変える、道魄の禁忌の術――。
「……なるほどな。トシが守りたがってる『理』ってのは、こんな化け物まで身内に飼い慣らさなきゃならねえほど、追い詰められてるってわけだ」
凱夜はゆっくりと立ち上がり、腰の二本の刀に手をかけた。
「お凛、阿、吽。こいつを外に逃がすな。島原の連中に、この汚ねえ血を見せるんじゃねえぞ」
「了解だよ、凱夜様! 腐ったネズミの掃除だね!」
「……仰せのままに、真の主様。汚れは我らで拭い去りましょう」
月明かりの下、竹林が激しくざわめく。
新選組分裂という歴史の悲劇の裏側で、凱夜は、かつての仲間たちが「人でなくなっていく」凄惨な現場に、片足を突っ込もうとしていた。




