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神速の陰陽師 〜幕末艶武伝〜  作者: 風花
第三章:禁門の紅蓮と御所の守護獣
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神域の秘事、武士(もののふ)の意地

 蛤御門の砲声が遠ざかり、京の街が焦げ付いた静寂に包まれる頃、御所の深奥「紫宸殿」のさらに裏手に位置する聖域では、人知れず狂乱の宴が始まろうとしていた。

 凱夜は、傷ついたうんを左右に抱きかかえ、神域に設えられた最高級の寝所へと足を踏み入れた。

「凱夜様、身体の傷は……。道魄の呪毒がまだ、貴方の命を削ろうとしています」

 夕霧が、心配そうに凱夜の背中に手を添える。凱夜の漆黒の着物はボロボロに焼け、その下の逞しい肌には、阿と吽を抱きとめた際に受けた「国の怨嗟」の痣が、不気味な文様のように浮かび上がっていた。

「くかか、この程度の毒、俺の霊圧で溶かしてやるよ。……それより、この小娘たちだ」

 凱夜は阿と吽を柔らかな寝具の上に放り出した。

 道魄の杭を抜かれ、魔性から解き放たれた双子の守護獣は、もはや恐ろしい猛獣ではない。一皮剥けば、初めて男の熱に触れ、魂を根底から揺さぶられた初心な少女たちであった。

「……凱夜、様。……私たち、もう、守護獣には戻れません。貴方の霊圧が……私たちの中に混ざり合って、離れないの……」

 姉の阿が、熱っぽい瞳で凱夜を見上げる。

「戻る必要がどこにある。……神の使いなんて退屈な役目は今日で終わりだ。これからは、俺の『家族』として、俺の機嫌を取るためにその力を使え」

 凱夜の不遜な宣言に、うんもまた、白磁のような頬を赤く染めて身を乗り出した。

「……はい。……貴方がこの国を断つ刃だと言うのなら、私たちはその鞘になりたい。……貴方の毒を、私たちがもっと、吸い取ってあげたい……」

 凱夜は満足げに笑い、二人を同時に引き寄せた。

 その背後から、緋糸あけいとが銀糸を張り巡らせて部屋を密室へと変え、おおりんがその火照った身体を凱夜の背に押し付ける。

「ずるいよ、双子ちゃん。凱夜様を助けたのは私と緋糸だって忘れないでよね」

「……分け隔てなく、愛でてくださいますわよね、凱夜様?」

 五人の美女たちの体温と、凱夜の荒々しい霊圧が混ざり合う。

 それは、神域という最も神聖な場所で行われる、最も背徳的で生命力に満ちた儀式であった。凱夜が阿と吽を抱くたび、彼女たちが抱えていた国の重圧は、甘美な悦楽へと昇華され、消えていく。


 夜明け前。

 凱夜は一人、紫宸殿の屋根の上に座り、煙管を燻らせていた。東の空が白み始め、戦火の煙が朝霧に紛れていく。

「……凱夜。やはりここにいたか」

 影から現れたのは、土方歳三だった。隊服は血と煤に汚れ、激戦の凄まじさを物語っている。その鋭い眼光は、勝利の安堵よりも、眼前に広がる焦土への憤りと悲哀を湛えていた。

「トシか。表はどうなった」

「長州の連中は退いた。……だが、京の街は半分が灰だ。……それよりも凱夜、御所の結界はどうなった」

 凱夜は朝日に刀をかざし、その透き通るような刃紋を見つめた。

「道魄のジジイが言ってたぜ。……俺が国を救うために放ったあの一閃こそが、この国の秩序を断ち切る『終焉の剣』だってよ。守れば守るほど、古臭い理が壊れていく。……だが、それでいいんじゃねえか? 滅びるほど脆い国なら、一度ぶっ壊して、俺の女たちが笑って暮らせるような新しい世の中に作り替えりゃいい」

 その瞬間、隣にいた土方の空気が一変した。

 ガチリ、と硬質な音が響く。土方が鯉口を切り、抜き放たれる寸前の刀身が朝日に鈍く光った。

「――言葉を選べ、凱夜」

 土方の声は、地を這うような低さで、抜き身の刃以上の殺気を帯びていた。

「俺たちは、この国を、徳川の世を守るために血を流してんだ。ぶっ壊して作り替えるだと? それは俺たちが斬り捨ててきた、あの賊どもと同じ言い草だ。……貴様までそっち側に堕ちたってんなら、今ここで俺が斬る」

 凱夜は煙管を口に咥えたまま、ゆっくりと土方に向き直った。土方の目は本気だった。友情や貸し借りなど、武士の矜持の前では塵に等しいと言わんばかりの冷徹な眼差し。

「……くかか、相変わらず堅苦しい野郎だ。だがトシ、てめえが守ろうとしてるその『理』が、もし女一人の涙すら拭えねえほど錆びついてたとしても、まだ守る価値があるってのか?」

「価値があるかないかじゃねえ。……守ると決めたから、守る。それが武士もののふの生き方だ。貴様のような、風の吹くままに刃を振るう人非人には分からんだろうがな」

 二人の間に、戦場以上の刺すような沈黙が流れる。凱夜の黄金の瞳と、土方の漆黒の瞳が火花を散らす。

 やがて、凱夜はふっと息を吐き、煙管を懐に収めた。

「……ちっ、興が削げたぜ。俺は俺の勝手で斬る。てめえはてめえの勝手で守りな。……だがな、もしその国が本当に行き止まりに来た時、てめえを地獄の淵から引きずり出してやれるのは、案外俺のような人非人かもしれねえぜ」

 凱夜はそう言い捨てると、屋根から軽やかに飛び降りた。

 土方は刀を鞘に収めたが、その手は微かに震えていた。凱夜の言葉が、ただの放言ではなく、避けられぬ未来を予見しているように感じたからだ。

「……凱夜様!」

 階下では、目覚めた阿と吽、そして夕霧たちが凱夜を待っていた。

 凱夜は彼女たちの元へ歩み寄り、一度も振り返ることなく闇へと消えていく。

 朝陽が昇り、焦土と化した京を照らし出す。

 守るべき秩序を信じる土方と、それを内側から切り裂いていく凱夜。

 二人の歩む道が決定的に分かたれ、そしてより深く交錯していく。維新という名の巨大な嵐は、すぐそこまで来ていた。


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