第9話 切り抜き動画と爆発的バズ
朝の眩しい日差しが、遮光カーテンの隙間からワンルームの部屋に差し込んでいた。
デスクの上に散乱した空の栄養ゼリー飲料のパッケージと、冷めきったコーヒーカップ。その真ん中で、村田琴美は充血した目を限界まで見開き、デュアルモニターの右側の画面を食い入るように見つめていた。
「い、百万……。本当に、一夜で……?」
震える手でマウスを握りしめたまま、琴美は掠れた声で呟いた。
画面に表示されているのは、D-Tubeの『名無し_キャンプ配信_テスト』チャンネルのアナリティクス画面だ。深夜に彼女が狂気的な熱量で編集し、SNSに投下した三分間の切り抜き動画は、完全に世界に火をつけていた。
SNSのトレンド上位は『#神獣テイム』『#アビス最深部』『#謎のおっさん』といったワードで独占され、彼女の作った動画のリポスト数は一晩で五十万回を超えている。
そして何より異常なのが、切り抜き動画から本家チャンネルへと雪崩れ込んだ視聴者たちの数だった。配信者が寝ているだけの真っ暗な待機画面に常時数万人が張り付き、チャンネル登録者数はスロットマシンのように回り続け、つい先ほど、百万人の大台をあっさりと突破してしまったのだ。
「国内トップのSランク探索者でも、ミリオン達成には数年かかるのに……。それを、たったの一日で……」
琴美は背もたれに深く寄りかかり、天井を仰いだ。
自分が作った切り抜きが起爆剤になったという達成感。歴史的な瞬間に立ち会っているという興奮。だが、それらをすべて塗り潰すほどの強烈な感覚が、彼女の身体を支配していた。
「……お腹、空きました」
琴美の胃袋から、きゅるるぅ、と悲鳴のような音が鳴る。
徹夜で動画を編集し、あの底辺探索者――謎のおじさんの過去のアーカイブ映像を隅から隅まで見返していた彼女の脳裏には、彼が作っていた分厚いステーキや豚バラのコーラ煮、スパイスカレーの映像が鮮明に焼き付いている。パサパサの栄養食などでは到底満たされない、細胞レベルの飢餓感だった。
「……早く、次の配信が見たいです。あのおじさんの、美味しいご飯が……」
琴美はマルチモニターの左側、現在も接続を維持している本家配信のタブを睨みつけ、新しい飯テロの始まりを今か今かと待ち構えていた。
★★★★★★★★★★★
「ふわぁ……よく寝たな」
テントから這い出した俺は、大きく伸びをして最深部の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
時刻はすでに昼近く。どうやら、想像以上に熟睡してしまっていたらしい。
「ワフッ!」
足元から元気な鳴き声が聞こえた。見下ろすと、ゴールデンレトリバーほどのサイズに縮んだハクが、太い尻尾をバタバタと振って俺を見上げている。昨日あんなに食ったというのに、もう腹を空かせているのか、口元からはツヤツヤとしたヨダレが垂れていた。
「おはよう。お前、ほんとに燃費がどうなってんだ」
苦笑しながらハクの頭を撫でてやり、俺は岩の上に放置していた配信端末を手に取った。
バッテリー残量を確認しようと画面をタップした瞬間、表示された数字に俺は目を丸くした。
「……ん? 登録者百万? なんだこれ、カウンターの桁がバグってるのか?」
同接数も、俺が寝ていて何も映っていないはずの画面に数万人が待機している。システムの不具合に違いない、と俺は端末を適当に再起動し、再び元の岩に立てかけた。
配信画面のバグなど、今の俺にはどうでもいいことだ。
「よし、昼飯にするか。ハク、ちょっと待ってろよ」
俺はアイテムボックスを展開し、木製のテーブルの上に調理器具と食材を次々と並べていく。
昼は重い肉料理ではなく、良質な脂と塩気のある魚が食べたい気分だった。
俺が用意したのは、分厚く切られた生鮭の切り身と、醤油漬けにされたイクラがたっぷりと入ったタッパー。それに、出汁を含ませる前の乾物の高野豆腐だ。昨日の昼間に周辺の森で採集し、下処理として酢とオリーブオイルに漬け込んでおいた特製キノコマリネも取り出す。あとはキムチと高菜漬け、キャベツの味噌汁で完璧な和定食の布陣だ。
「まずは高野豆腐だな」
小鍋に一番出汁を張り、薄口醤油とみりん、少量の塩と砂糖でつゆを作る。火にかけて沸騰させたところに、水で戻して絞った高野豆腐を投入した。
通常なら弱火でじっくりと時間をかけて味を含ませるところだが、俺は『極・生活魔法』の干渉領域を鍋の内部に限定して発動させた。
微細な魔力の振動を煮汁に与え、高野豆腐のスポンジ状の組織へと強制的に旨味を浸透させていく。ほんの数分で、数時間煮込んだかのように芯まで出汁を含んだ、ふっくらとした煮物が完成した。
「次は鮭だ。こいつは焼き加減が命だからな」
フライパンに薄く油を引き、鮭の切り身を皮目を下にして置く。
ジューッ、という心地よい音が弾ける。俺は生活魔法でフライパンの表面温度を完璧に均一化させ、皮が焦げる直前のギリギリの温度帯をキープし続けた。
皮の水分が飛び、パリッとした黄金色に焼き上がったところで裏返す。身の方は火を通しすぎないように、余熱を利用してふっくらと仕上げる。火から下ろす直前に、ほんの少しだけ酒を振って臭みを完全に消し飛ばした。
焼き上がった鮭をまな板に乗せ、箸とピンセットを使って小骨を一本残らず丁寧に抜き取り、身を粗くほぐしていく。皮はパリパリのまま細かく刻んで身に混ぜ込んだ。
『おいおい、高野豆腐の味の含ませ方おかしいだろ! 何分で作った!?』
『鮭の焼き加減が完全に料亭の板前のそれ』
『骨抜いて身をほぐす手際が良すぎる。絶対素人じゃない』
『なんだこのおっさん、魔法使いの皮を被った特級料理人かよ』
画面の端でコメントの流れる速度が上がっているが、俺は土鍋の蓋を開けた。
ふわりと立ち昇る湯気の下には、完璧な水加減で炊き上がったツヤツヤの白飯が待っている。
大きめの丼に白飯をよそい、その上にほぐした鮭の身を敷き詰めるように乗せる。さらにその上から、タッパーに入っていたイクラの醤油漬けを、これでもかというほど大量に、滝のようにぶっかけた。
オレンジ色の鮭の身と、ルビーのように輝くイクラの粒。そのコントラストが、視覚から直接食欲を抉り取ってくる。
「よし、鮭とイクラの親子丼の完成だ。あとは小鉢と味噌汁だな」
昨日の昼に仕込んだキノコのマリネは、時間が経って酸味が角を取り、まろやかで深い味わいになっているはずだ。小皿にキムチと高菜を盛り付け、別の鍋でシャキシャキのキャベツの味噌汁を仕上げる。
「待たせたな、ハク」
俺はハク用の巨大な木桶に、大量の白飯と鮭、イクラを豪快に盛り付けてやった。
ハクは「ワフゥッ!」と短く吠え、木桶を抱え込むようにして夢中で食べ始めた。ガツッ、ガツッと不器用な音を立てながら、米と海鮮の混ざり合った未知の味覚に目を丸くしている。
「お前、魚でもその食いっぷりなのか……」
呆れながらも、俺は自分の丼を手に取り、手を合わせた。
「いただきます」
まずは、キャベツの味噌汁で口を潤す。ホッとする出汁の旨味と味噌の香りが、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
そして、メインの丼に箸を入れた。
ほぐした鮭の身と、たっぷりのイクラを、下にある白飯ごと一気に持ち上げて口に放り込む。
「……んっ」
噛み締めた瞬間、イクラの薄い皮がプチッと弾け、中から濃厚で甘じょっぱい醤油漬けの旨味が口いっぱいに弾け飛んだ。そこに、絶妙な塩加減で焼かれたふっくらとした鮭の身が混ざり合う。
パリパリに焼かれた鮭の皮の香ばしさと食感が、柔らかなご飯とイクラの中で最高のアクセントになっていた。温かい白米が、弾けるイクラの塩気と鮭の脂を優しく包み込み、噛むたびに多幸感が脳髄を突き抜けていく。
たまらない。肉の暴力的な旨味とは違う、海の幸の濃厚で繊細な波状攻撃だ。
鮭とイクラの余韻が残る口の中に、高野豆腐の煮物を放り込む。
ジュワッ。
噛んだ瞬間、スポンジ状の豆腐から、鰹と昆布の優しい一番出汁が滝のように溢れ出した。少し甘めのつゆが、海鮮の塩気を綺麗に洗い流し、口の中をホッと落ち着かせてくれる。
最高だ。この高野豆腐だけでもご飯が一杯食えそうだ。
口直しにキノコのマリネをつまむ。シメジやマイタケに染み込んだオリーブオイルと酢のまろやかな酸味が、完璧なリセットボタンとして機能する。
すかさず、ご飯にキムチと高菜を乗せて掻き込む。発酵した辛味と旨味が、無限に食欲を増幅させてきた。
鮭とイクラの濃厚な旨味。
高野豆腐から溢れる優しい出汁。
マリネの酸味。
キムチと高菜の辛味。
俺はもはや無心になり、丼と小鉢を往復する箸の動きを止められなかった。
無言で、ただひたすらに美味い飯を食い続ける。
『ああああああ! イクラの弾ける音がマイクに乗ってる!』
『鮭の皮のパリッて音! 無理! 腹減った!!』
『登録者百万人の記念配信が、おっさんが鮭イクラ丼を無言で掻き込んでる映像ってマジかよwww』
『高野豆腐から出汁が溢れる瞬間、画面越しでもわかって死にそう』
『昼間からこんな美味そうなもん見せやがって……! 許さん、絶対許さんぞおっさん!』
コメント欄が阿鼻叫喚の地獄絵図と化していることなど露知らず、俺は土鍋で炊いた三合近いご飯を、あっという間に胃袋に収めてしまった。ハクもとうの昔に木桶を空にし、顔中をイクラの汁だらけにしながら満足げに腹を出して転がっている。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
俺は空になった丼を置き、満足感と共に深く息を吐いた。
食後の締めくくりに、アイテムボックスから茶葉を取り出す。沖縄産のゴーヤー茶だ。
ケトルで沸かした湯を急須に注ぎ、少し蒸らしてから湯呑みに入れる。黄金色のお茶から、独特の焙煎香が漂った。
一口すする。
ゴーヤー特有の爽やかな苦味が口の中をサッパリと洗い流し、脂っぽさや塩気を完全にリセットしてくれた。胃の中がじんわりと温まり、食後の緩やかな疲労感が身体を包み込む。
「さて、午後は腹ごなしに、少し遠くまで歩いてみるか」
仰向けになって寝転がるハクの白い腹を足の裏で優しく撫でながら、俺はマグカップに残ったゴーヤー茶をゆっくりと飲み干した。




