第7話 北欧の戦乙女、胃袋を掴まれる
最深部の高い天井に輝いていた疑似太陽がゆっくりと光を落とし、代わりに周囲の岩盤に自生する発光苔が、本物の星空のように淡い青光りを放ち始めていた。
「昼間に見つけたこの木の根、やっぱり生姜とカルダモンを足して割ったような強烈な香りがするな。カレーのスパイスにぴったりだ」
俺は木製のテーブルの上で、昼の散策で採集してきた未知の植物をすり下ろしながら独りごちた。
ダンジョンの最深部は、外敵のいない平和な場所というだけでなく、手つかずの自然が残す食材の宝庫でもあった。特に香辛料として使えそうな野草や木の実が豊富に群生しており、料理好きの俺にとっては遊園地のような空間だ。
足元では、ハクが地面に顎をこすりつけるようにして伏せの姿勢をとり、俺の手元を凝視している。その口からは相変わらずとめどなくヨダレが流れ落ち、すでにちょっとした水たまりを形成していた。
「今日は本格的なスパイスカレーを作る。少し時間がかかるから、おとなしく待ってろよ」
俺はかまどの火力を調整し、厚手のフライパンに多めの油を引いた。
まずはテンパリングだ。アイテムボックスのスパイスケースから取り出したクミンシード、マスタードシード、クローブ、カルダモンといったホールスパイスを冷たい油に投入し、弱火でじっくりと香りを油に移していく。
ただ漫然と火にかけるのではない。俺は『極・生活魔法』の微細な魔力操作によって油の温度をフライパンの隅々まで完璧に均一化し、スパイスの細胞壁から最も芳醇な香りの成分が溶け出す温度帯をキープし続ける。
パチパチという小さな音と共にマスタードシードが跳ね、クミンの土っぽい香りとカルダモンの爽やかな香りが立ち昇る。夜の澄んだ空気を、一気にエキゾチックな香りが染め上げていく。
岩の上に立てかけた配信端末の画面は、昼間からずっと凄まじい速度で文字の群れが流れ続けている。同接はついに三十万を超えていたが、俺はもういちいち気にするのをやめ、目の前のフライパンに集中した。
香りが十分に立ったところで、みじん切りにした大量の玉ねぎを投入する。
通常、玉ねぎの水分を飛ばして飴色にするには、焦げないように付きっきりで数十分は炒め続けなければならない。だが、そんな悠長なことはしていられない。
「水分だけ、一気に飛ばすぞ」
俺はフライパン全体を包み込むように生活魔法の干渉領域を展開した。
炎の熱を直接玉ねぎの水分にだけ作用させ、一瞬にして蒸発させる。ジューッという激しい音と共に白い蒸気が上がり、フライパンの中の大量の玉ねぎは、わずか数分のうちに濃縮された甘みを持つ見事な飴色のペーストへと変化した。
すかさず、すり下ろしたニンニクと、先ほどのダンジョン産の木の根を投入する。強烈な香味が加わり、食欲をダイレクトに刺激するような匂いが弾けた。
そこにトマトのざく切りを加え、さらにコリアンダー、ターメリック、カイエンペッパーなどのパウダースパイスと塩を投入する。全体が馴染んでペースト状にまとまると、赤い油が分離して表面に浮いてくる。これがカレーの土台となる「カレーのもと」だ。
「よし、完璧なベースができた。ここに、ヨーグルトと各種スパイスに半日漬け込んでおいた鶏もも肉を入れる」
鶏肉の表面の色が変わるまで炒め合わせた後、ひたひたになるまで水を注ぎ、蓋をして煮込む。
その間に、別の鍋で米を炊く準備だ。今回は普通の白米ではなく、アイテムボックスの奥底に眠らせていた高級なバスマティライスを使う。細長い粒のこの米は、粘り気が少なくパラパラとしており、スパイスカレーとの相性はこれ以上ないほど抜群なのだ。
たっぷりの湯で茹でるように火を通し、頃合いを見てザルにあけて湯切りをする「湯取り法」を用いる。仕上げに鍋に戻して軽く蒸らすことで、米一粒一粒が独立した、羽毛のように軽いライスが完成する。
「お待たせ。チキンカレーの完成だ」
俺がダッチオーブン代わりの厚手鍋の蓋を開けると、スパイスの複雑な香りが熱気と共にドーム状に広がり、ハクが「クゥゥゥン!」と悲鳴のような歓喜の声を上げた。
木皿に純白のバスマティライスをふんわりと盛り付け、その横に赤い油がキラキラと輝くチキンカレーをたっぷりとかける。仕上げに、刻んだパクチーを散らして彩りを加えた。
「熱いからな。鼻面を火傷しないように気をつけろよ」
俺が巨大な木桶に盛り付けたハクの分のカレーを差し出すと、ハクはガッ、ガツガツッ、と木桶が割れんばかりの激しい音を立ててライスとカレーを食らい始めた。スパイスの刺激に驚くこともなく、顔中をカレーまみれにしながら一心不乱に食べているのを見ると、どうやらこの複雑な味も気に入ったようだ。
俺も自分の木皿を手に取り、スプーンでカレーとライスをすくって口に運んだ。
「……っ」
舌に触れた瞬間、カルダモンの爽やかな香りが鼻を抜け、その直後にクミンやコリアンダーの重厚な風味が追いかけてくる。そして、ダンジョンで採れたあの謎の木の根が、生姜以上の鮮烈なパンチとなって全体をシャープに引き締めていた。
ヨーグルトの効果でホロホロに煮込まれた鶏肉の旨味と、パラパラのバスマティライスが、口の中でスパイスの海に溺れ、完璧な調和を生み出していく。
「美味い。我ながら、専門店顔負けだな」
俺はスプーンを持つ手を止めることなく、無限に広がる香りの層を堪能しながら、次々とカレーを胃袋に流し込んでいった。
★★★★★★★★★★★
東京の一等地にそびえ立つ、超高級タワーマンションの最上階。
その広大なリビングルームで、エミリア・ラルセンは、疲れ切った体をイタリア製の高級ソファに投げ出していた。
ノルウェー出身のSランク探索者である彼女は、氷の魔法と剣術を操るトップD-Tuberであり、その整った容姿から雑誌のモデルも務めている。
今日の遠征でも、Aランクダンジョンのボスを単独で討伐し、多くのファンを魅了する配信を終えたばかりだった。
シャワーを浴びてルームウェアに着替えたエミリアは、テーブルの上に置かれた味気ないゼリー飲料に手を伸ばした。
「……はぁ。お腹空いた」
エミリアの最大の弱点。それは、極度の「食いしん坊」であることだ。
日本の豊かな食文化に触れて以来、彼女はカツ丼やラーメン、激辛の麻婆豆腐といったガッツリ系のB級グルメの虜になっていた。しかし、Sランク探索者としての体型維持と、所属事務所が設定した「クールで気高い戦乙女」というイメージ戦略のため、公の場や深夜には徹底した食事制限を強いられている。
「今日もこれで我慢しないと……」
ため息をつきながらゼリー飲料のキャップを開けようとした時、テーブルに放り出していたスマートフォンの通知が、異常な頻度で鳴り続けていることに気づいた。
探索者専用のシークレットチャットアプリを開くと、同業のSランクやAランクの探索者たちが、パニックに陥ったメッセージを連投している。
『おい、ギルドは動いてるのか!? あれ本物のアビスの最深部だろ!』
『フェンリルが犬みたいに餌食ってる映像、フェイクじゃないのか!?』
『魔力波長を解析した部隊が、間違いなく本物だと断定したらしい。政府も緊急会議を開いてる』
『あの男は何者なんだ? Fランクの荷物持ちって名乗ってるらしいが』
「アビスの最深部? フェンリル?」
チャットの文字に、エミリアは目を瞬かせた。あの絶対的な存在である神級魔獣が、謎の男に餌付けされているというのだ。
エミリアは慌ててD-Tubeのアプリを開き、トレンドのトップに固定されている『名無し_キャンプ配信_テスト』という枠をタップした。
画面に映し出されたのは、青白く光る苔に照らされた美しい水辺。
そして、焚き火のそばのキャンピングチェアに座り、木皿を抱えて何かを食べている長髪の男と、その足元で巨大な桶に顔を突っ込んで無防備に食事をしている白い魔獣の姿だった。
「本当に、フェンリル……。魔力越しでもわかる、あの存在感」
エミリアは画面を食い入るように見つめた。だが、彼女の視線はすぐにフェンリルから外れ、男が手に持っている木皿へと完全に吸い寄せられていった。
マイクを通して、パチパチと薪が爆ぜる音に混じり、サクサクという軽い音と、スプーンが木皿に触れる微かな音が響いてくる。
画面越しからでも強烈に伝わってくる、鮮やかな黄金色のライス。その上にかけられた、スパイスの粒子が溶け込んだ赤い油の浮くカレー。男がスプーンで鶏肉をほぐすたびに、画面のこちら側まで、鼻腔を貫くようなエキゾチックな香りが漂ってくるような強烈な錯覚に襲われた。
『この深夜にスパイスカレーはテロだろ!』
『あの米、バスマティライスじゃねえか。ガチすぎる』
『美味そう……腹減った……死ぬ……』
コメント欄の悲鳴は、そのままエミリアの心の叫びだった。
「……っ」
エミリアの喉が、ゴクリと大きく鳴った。
彼女はスパイスの効いた料理に目がなかった。特に、専門店で出されるような複雑な香りのスパイスカレーは、定期的に食べないと禁断症状が出るほど愛している。
だが、明日は雑誌の撮影が入っているため、ここ数日は厳しいカロリー制限を行っていた。極限まで削られた彼女の空腹状態の胃袋に、男が画面の中で見せつける完璧なスパイスカレーのシズル感は、理性を跡形もなく消し飛ばす猛毒だった。
「……た、食べたい」
エミリアの口から、震えるような切実な声が漏れた。
男が美味そうにカレーを咀嚼する音が響くたびに、エミリアの胃袋が限界を訴えてきゅるきゅると鳴り響く。
テーブルの上のゼリー飲料を見た。プロテインバーの束を見た。
そして再び、画面の中の、スパイスの海に溺れるホロホロの鶏肉を見た。
パチン、と。
エミリアの中で、理性の糸が弾け飛ぶ音がした。
彼女は手に持っていたゼリー飲料をゴミ箱に投げ捨てると、ソファから跳ね起きた。
クローゼットを乱暴に開け、ルームウェアを脱ぎ捨てて、普段の探索で使っている高機能な防刃インナーと、青と白を基調としたSランクの軽装鎧を素早く身に纏う。
壁に立てかけていた愛剣、周囲の熱を奪い凍結させる『氷雪の魔剣』の柄を握りしめた。
「誰も到達したことのない未踏の最深部? 行き方なんて知らない。でも、そんなの途中の階層を全部氷漬けにして、岩盤をぶち抜いてでも道を作ればいいだけだ」
思考のベクトルが、すでに「どうやってあのカレーにありつくか」という一点にのみ向いていた。
世界最強の魔獣がいる危険地帯だということも、相手の男の正体が不明であることも、明日の雑誌の撮影のことも、今の彼女の脳内からは完全に除外されていた。
「待ってなさい……。そのカレー、絶対に私が一口食べてあげるんだから……!」
碧眼に尋常ではない食の執念を燃やしながら、エミリアは深夜のタワーマンションのベランダの手すりに足をかけた。
彼女の放った氷の魔法が、夜空に向かって輝く足場を形成していく。エミリアは愛剣を手に、ただただスパイスカレーの幻影を追いかけて、深夜の東京の空を弾丸のように駆け出していった。




