第6話 深夜の飯テロ被害者第1号
カチャカチャカチャッ、ターン!
深夜の薄暗いワンルームアパートに、メカニカルキーボードを叩きつけるリズミカルな音が響き渡っていた。
デスクの上に並べられたデュアルモニターの青白い光が、散らかった部屋と、PCチェアに胡座をかいて座る村田琴美の血走った瞳を照らし出している。
「……あり得ない。何度見ても、全く理解できない現象です」
大きめの丸眼鏡の奥で、琴美の瞳が微かに金色の光を帯びていた。
彼女は動画編集ソフトのタイムラインを操作し、偶然見つけた『名無し_キャンプ配信_テスト』という枠のアーカイブ映像をコマ送りで再生している。画面に映っている長髪の巨漢――自称、元・専属荷物持ちのおじさんが、石造りのかまどを一瞬で組み上げたシーンだ。
琴美の持つ『真眼』は、対象のステータスや魔力の流れまでをも視覚的に読み取ることができる。だが、このおじさんの魔法行使の瞬間に、論理的な魔力構築のプロセスは一切見当たらなかった。理屈をすっ飛ばして事象だけが上書きされる異常な現象。何度見返しても、背筋に冷たいものが走る。
「でも、この魔法の異常さだけじゃ、一般の視聴者には凄さが伝わりにくいんですよね。バズらせるには、もっと一目でわかる強烈な『絵』が必要です」
琴美は戦慄を無理やり抑え込み、プロの切り抜きクリエイターとしての目線でタイムラインを後ろにスクロールさせた。
この配信には、世界中の誰もが目を疑う、最強の「絵」が存在している。
画面に映し出されたのは、高層ビルを見上げるような威圧感を放つ白銀の神級魔獣。
その絶望の権化が。
『ほら、食え。熱いから気をつけろよ』
おじさんが差し出したガーリックライスと極厚のステーキを前に、まるで飼い主を待つ大型犬のように嬉しそうに尻尾を振り、口から大量のヨダレを垂らして待てをしているのだ。
琴美は画面を一時停止し、太く赤いフォントに黒の縁取りを加えた特大のテロップを画面中央に配置した。
【※異常事態:神級魔獣、A5和牛に完全に餌付けされる】
「ふふっ……あははっ。ヤバい、編集中なのに笑いが止まらない……!」
深夜のテンションも相まって、琴美は一人で肩を震わせた。
おじさんの規格外な技術、神獣の威厳の完全なる崩壊、そして何よりも、深夜の胃袋を直接殴りつけてくるような、圧倒的な料理のシズル感。これほどまでに完璧で、ツッコミどころに溢れた動画素材に出会ったのは初めてだった。
三時間のアーカイブ映像を三分に凝縮し、テンポの良いカット編集と、神獣がヨダレを垂らすシーンにコミカルな効果音を追加する。
エンコードを開始し、プログレスバーが進んでいくのを待ちながら、琴美はライブ配信のタブに切り替えた。
画面の中では、おじさんがちょうど食後の後片付けをしているところだった。
ソフトボール大の水球が高圧の水流に変わり、ダッチオーブンの焦げ付きを削り落としていく。琴美は息を呑み、即座にキーボードを叩いてコメントを送信した。
『てか、あの洗浄魔法と焙煎の技術おかしいだろ! 水圧カッターかよ!』
自分の打ち込んだコメントが、数人しかいないチャット欄にポツンと表示される。
おじさんはそれに気づく様子もなく、フライパンの上でコーヒーの生豆を煎り始めた。パチッ、パチッという豆の爆ぜる音が、高性能なマイクを通して琴美の部屋に響く。
画面から漂ってくるはずのない芳醇なコーヒーの香りを錯覚し、琴美は無意識に机の上のエナジードリンクを手に取った。一口すする。カフェインと人工的な甘味料の味が、ひどく泥水のように感じられた。
「よし、出力完了」
琴美は完成した三分間の切り抜き動画を、D-Tubeのショート動画プラットフォームと、自身のSNSアカウントに同時にアップロードした。
ハッシュタグには『#アビス最深部』『#天狼』『#飯テロ』『#神獣テイム』を並べる。彼女のSNSアカウントには、過去のバズ動画から定着した熱心な探索者ファンが少なからずフォロワーとして存在している。
アップロードボタンを押し、背もたれに深く寄りかかって大きく伸びをした、その十数分後だった。
ピコンッ、ピコンッ、ピココココココココンッ!!
スマートフォンとPCの通知音が、壊れた警報機のように鳴り響き始めた。
「え……?」
琴美が慌ててSNSの画面をリロードすると、通知欄がスクロールバーを破壊するような勢いで更新され続けていた。
リポストといいねの数が、数秒ごとに千単位で跳ね上がっていく。タイムラインを覗き込むと、国内トップクラスのSランク探索者や、大手ニュースメディアのアカウントが、彼女の動画を次々と引用して拡散している。
『おい嘘だろ、これCGじゃないのか!?』
『背景の岩盤の構造、既存のどの階層のデータとも一致しないぞ! まさか本当にアビスの最深部か!?』
『神獣が……お手してる……?』
『今、本家でライブ配信やってる! 急げ!』
琴美は生唾を飲み込み、ライブ配信画面に視線を戻した。
画面右上の同接カウンターが、一瞬システムエラーのように静止し、次の瞬間に五万、八万、十万と、恐ろしい速度で桁を増やしていく。
たった数分前まで五人しかいなかった底辺チャンネルに、世界中から十万人以上の人間が雪崩れ込んできたのだ。
そして、当のおじさんはと言えば。
『あー……テステス。マイク、聞こえてるか?』
十万人のパニックをよそに、淹れたてのコーヒーをすすりながら、のんびりとした声でカメラに話しかけていた。
焦る様子も、興奮する様子もない。足元でヘソ天をして寝転がる神獣を「ただのデカい犬」と称し、自身が『赫き剣』のパーティーに囮にされて置き去りにされたことを、まるで昨日の夕飯のメニューを語るようなトーンで淡々と告白している。
「この人……メンタルまで規格外すぎる……!」
琴美は両手で頭を抱えた。
自分がとんでもないパンドラの箱を開けてしまったことを、彼女はここに至ってようやく完全に理解したのだ。
★★★★★★★★★★★
それから数時間が経過した。
窓の隙間から、朝を知らせる白い光が差し込んできている。
琴美は一睡もすることなく、血走った目でモニターの前に張り付いていた。
画面の中では、朝の光の中で、優雅に朝食の準備が始まっている。
土鍋の蓋が開けられ、真珠のように輝く炊きたての白飯が姿を現した。その上に乗せられるのは、深い飴色に染まった二日目の肉じゃがの肉と、とろみのついた濃厚な煮汁。
さらに、フワフワに混ぜられた納豆、真っ赤なキムチとカクテキ、炙りたての焼き海苔、春キャベツの味噌汁という、日本人の胃袋を的確に狙い撃ちにする完璧な布陣がテーブルに並べられた。
おじさんが肉じゃがミニ丼を口に運ぶ。
肉の脂が舌の上で溶け、甘辛いタレの染みたご飯と一緒に喉の奥へと消えていく。その幸せそうな咀嚼音と、カクテキをかじる小気味良い音が、静かなワンルームの部屋に無慈悲に響き渡った。
「きゅるるるるるるぅぅぅぅ……」
琴美の胃袋から、長く、絶望的な音が鳴り響いた。
昨日の昼から動画編集に没頭していた彼女は、水とエナジードリンク以外何も口にしていなかったのだ。極度の空腹状態の胃袋に、この完璧な朝食の映像と音は、あまりにも残酷な猛毒だった。
モニターから匂いが漂ってくるような強烈な錯覚。
牛肉の脂の甘み。出汁の効いた味噌汁の香り。納豆と焼き海苔の風味。
琴美は震える手を伸ばし、デスクの引き出しから、特売で買い溜めしてある安物のブロック型栄養食を取り出した。パサパサとした、フルーツ味の保存食だ。
「いただきます……」
虚ろな目で画面を見つめながら、ブロックを一口かじる。
口内の水分を根こそぎ奪っていくモソモソとした食感と、人工的なビタミンの味が広がる。
画面の中では、おじさんが味噌汁をすすり、「たまらんな」と至福の吐息を漏らしていた。
「ひぐっ……うぅ……っ」
琴美の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。
悲しいわけではない。ただ、目の前の現実と、画面の向こう側の圧倒的な「食の格差」に、脳と胃袋が完全にパニックを起こしているのだ。
「絶対に……絶対に許しません……」
琴美は、パサパサの栄養ブロックを涙と一緒に咀嚼しながら、マウスを強く握りしめた。
「私だけがこんなお腹を空かせるなんて、不公平すぎます。このおじさんの飯テロの恐ろしさを、世界中の人間に味わわせてやります……!」
彼女は強く決意した。
この謎だらけで、図太くて、魔法がおかしくて、そして何より最高に美味しそうなご飯を作る配信者の専属クリエイターになり、この胃袋の苦しみを全人類と共有することを。
琴美はライブ配信の録画データを再び動画編集ソフトに放り込むと、限界を迎えていたはずの身体に謎のアドレナリンを走らせ、血走った目で再びキーボードを叩き始めた。




