第5話 コメント欄の大パニック
「……ホットサンドも捨てがたいが、やっぱり朝は米が食いたいな」
テントに差し込む明るい光で目を覚ました俺は、寝袋から這い出しながら誰にともなく呟いた。
ダンジョンの最深部には独自の生態系と時間が流れているらしく、天井の疑似太陽は地上と同じように朝日を模した柔らかい光を放っている。空気は澄んでおり、微かに草花の香りが混じっていた。
テントの入り口のジッパーを下ろして外に出ると、そこにはすでに待ち構えていたかのように、巨大な白い毛玉が鎮座していた。
「ワフッ!」
俺の姿を認めるなり、ハクが短い挨拶の声を上げ、太い丸太のような尻尾をバタバタと地面に打ち付け始めた。昨日と同じ、ゴールデンレトリバーほどのサイズに縮んだ状態だ。その背後で力強く揺れる尻尾が風を起こし、かまどに残っていた灰をわずかに巻き上げている。
「おはよう。お前、朝から元気だな」
俺がしゃがみ込んでその分厚い胸毛をわしゃわしゃと撫でてやると、ハクは目を細めて気持ちよさそうに喉を鳴らした。この神話級の魔獣が俺になついている理由は、間違いなく「飯」だ。現に、俺の手を舐めるハクの視線は、すでに俺がアイテムボックスを展開する虚空へと向けられている。
「わかってるよ。腹減ったんだろ。ちょっと待ってろ」
俺は立ち上がり、昨日岩の上に置きっぱなしにしていた配信端末を手に取った。
どうやら夜の間にバッテリー保護モードに入り、配信は一度途切れていたようだ。画面をタップしてスリープを解除し、新たに配信の枠を立ち上げる。
「えー、マイク入ってるか。おはようさん」
寝起きの低くかすれた声で挨拶をしながら、俺は端末を適当な岩に立てかけた。
配信開始ボタンを押して数秒。
まだ早朝だというのに、画面の右上に表示される同接のカウンターが、スロットマシンのように凄まじい勢いで回転し始めた。
百、千、一万……五万。
数字は止まる気配を見せず、数分もしないうちに十万の大台を軽々と突破していく。
『あああああ生きてたああああ!』
『おっさん! 無事だったか!』
『昨日の夜からずっと待機してたぞ!』
『切り抜き動画から来ました! ここが神獣を飼い慣らすFランクのチャンネルですか!?』
コメントが凄まじい速度でスクロールし始める。どうやら、俺が寝ている間に地上では何かの動画が拡散され、とんでもない騒ぎになっているらしい。
だが、そんな視聴者たちの熱狂よりも、俺の足元で「早く飯を作れ」と前足で地面を叩くハクの要求の方が切実だ。
俺はカメラの角度を少し下げ、かまどと俺の足元、そしてハクが映るように調整した。
『うおおおおお! 本物の天狼だ!!』
『待って、なんで人類の脅威が普通にお座りしてんの!?』
『犬じゃん。完全に飼い犬の動きじゃん』
『いや、よく見ろ。あの毛並みの魔力密度、画面越しでもヤバさが伝わってくる。間違いなく本物の神獣だ』
『討伐指定ランクSSの怪物が、おっさんの足元で撫でられてる光景、脳がバグるわ』
コメント欄がパニックに陥っているのを横目に、俺はアイテムボックスから折りたたみ式の木製テーブルを取り出し、湖畔の平地に広げた。
「昨日の夜はホットサンドにしようかと思ってたんだが、この澄んだ空気と冷たい水を見てたら、どうしても白いご飯と味噌汁が食いたくなってな」
俺は言いながら、次々と食材や調理器具をテーブルの上に並べていく。
『この状況で朝飯の献立悩めるメンタル鋼すぎんか?』
『まあ、昨日の夜にあれだけ食ってたしな……』
『神獣の前で朝のクッキング番組が始まるのか』
まずは米だ。
使い込まれた分厚い土鍋を取り出し、無洗米と湖の水を浄化して注ぐ。本来ならしっかり浸水させる時間が必要だが、俺は『極・生活魔法』で土鍋の中の水を微細に振動させ、米粒の芯まで一瞬で水分を浸透させた。
かまどに薪をくべ、指先から放った炎で火を起こす。強火で一気に沸騰させ、その後は魔力で火力をミリ単位で調整しながら、米の甘みを最大限に引き出していく。土鍋の蓋の穴から、米の甘い香りを乗せた蒸気が勢いよく噴き出し始めた。
「米を炊いてる間に、おかずの準備だな」
俺は小さな器をいくつもテーブルに並べた。
一つ目の器には、アイテムボックスに常備している納豆を二パック分入れる。付属のタレと辛子を加え、箸でかき混ぜる。シャカシャカというリズミカルな音が静かな湖畔に響く。空気を含ませるように五十回以上、しっかりと粘り気とフワフワの泡が出るまで手首のスナップを利かせて混ぜ抜くのが俺のこだわりだ。
『納豆の混ぜ方ガチ勢で草』
『ダンジョン最深部で納豆混ぜてる奴、歴史上初めてだろ』
続いて、密閉容器から真っ赤に染まったキムチと、大根の角切りであるカクテキを取り出し、小鉢にこんもりと盛り付ける。蓋を開けた瞬間、唐辛子とニンニク、そして発酵した魚介エキスの複雑で食欲をそそる香りが漂った。
さらに、昆布の佃煮を小皿に乗せ、焼き海苔はかまどの遠赤外線でサッと炙る。魔法で絶妙にコントロールされた炭火の熱が、海苔の表面の水分を飛ばし、パリッとした食感と芳醇な磯の香りを引き出しておく。
「よし。次は味噌汁だ」
小鍋に湯を沸かし、上質な鰹と昆布の合わせ出汁のパックを放り込む。黄金色の出汁が取れたところで、ざく切りにした春キャベツをたっぷりと投入した。
キャベツは煮込みすぎず、シャキシャキとした歯ごたえと甘みが残る絶妙なタイミングで火から下ろし、合わせ味噌を溶かし入れる。
立ち昇る湯気と共に、出汁の深い香りと味噌のホッとするような匂いが広がった。
『待って、品数多くない?』
『旅館の朝食かよ』
『キムチとカクテキの赤色が鮮やかすぎる。絶対美味いやつ』
『朝からキャベツの味噌汁とか最高じゃん……』
コメント欄の熱量が高まっていく中、俺は土鍋の蓋を開けた。
ふわりと広がる純白の湯気。その下には、一粒一粒が真珠のように輝き、カニ穴と呼ばれるくぼみが無数にできた、完璧な炊きあがりの銀シャリがあった。
「完璧だな。それじゃあ、本日のメインだ」
俺はアイテムボックスの奥から、一つの大きめのタッパーを取り出した。
中に入っているのは、俺がこのダンジョンに潜る数日前に、自宅のアパートで大量に仕込んでおいた特製の肉じゃがの「残り」だ。
「じっくり煮込んだ肉じゃがってのは、二日目、三日目になるとジャガイモや人参が煮崩れて、汁に完全に溶け込むんだよな」
俺の言葉の通り、タッパーの中身はもはや野菜の形を保っていない。
野菜の甘みと旨味が溶け出し、とろみがついた濃厚な煮汁。その中で、和牛の薄切り肉だけが、すき焼きのように深い飴色に染まってたっぷりと浸かっているのだ。
俺はそれを小さなフライパンに移し、かまどの火にかけてサッと温め直した。
醤油、みりん、砂糖、そして溶け込んだ野菜の甘い香りが、熱せられることで一気に弾ける。
ハクが「クゥゥゥ……ッ」とたまらないような声を漏らし、前足でバンバンと地面を叩き始めた。
「ほら、お前の分もちゃんとあるから落ち着けって」
俺は深めの丼に炊きたての白いご飯をよそい、その上に、温め直した肉じゃがの「あまりの肉」を煮汁ごとたっぷりと乗せた。
とろみのある甘辛い汁が、熱々のご飯の隙間に染み込んでいく。これだけで何杯でも米が食えそうな、究極のミニ丼の完成だ。
『うわああああああああ!』
『二日目の肉じゃがをご飯に乗せるとか、最高かよ!!』
『あんなの絶対美味いじゃん! 野菜が溶け込んだ汁とか反則だろ!』
『朝からこれは胃袋が耐えられない』
『納豆にキムチに肉じゃが丼……白飯の消費スピードがマッハの布陣じゃねえか』
俺はハク用にも、持参した巨大な木桶に大量の白飯と肉じゃがの肉を乗せ、少し冷ましてから足元に置いてやった。
「昨日も思ったが、お前のその馬鹿デカい胃袋ならこの量でも一瞬だろうな。味が濃いからって丸飲みせずに、少しは味わって食えよ」
俺が器を押しやると、ハクは「そんなことより早く食わせろ」と言わんばかりに力強く「ワフッ!」と吠え、一目散に木桶に顔を突っ込んだ。ズバババッという凄まじい音を立てて、米と肉を喉の奥へと流し込んでいく。
『丸飲みじゃねーかwwww』
『味わう気ゼロで草』
『あーあ、人類の脅威が完全に餌付けされちゃったよ』
コメント欄のツッコミを背に受けるような心地で、俺も手を合わせた。
「いただきます」
まずは、キャベツの味噌汁を一口すする。
カツオと昆布のしっかりとした出汁の旨味の後に、春キャベツの優しい甘みがふわりと広がる。胃袋がじんわりと温まり、寝起きの身体がゆっくりと覚醒していくのがわかった。シャキッとしたキャベツの食感も完璧だ。
次に、本命の肉じゃがミニ丼に箸を入れる。
飴色に染まった牛肉と、煮汁を吸って茶色くなったご飯を一緒に持ち上げ、口に放り込む。
「……んっ」
噛み締めた瞬間、牛肉の脂の甘みと、ジャガイモや玉ねぎが溶け込んだ複雑で濃厚な甘辛いタレの味が、口の中いっぱいに広がった。煮込まれて柔らかくなった肉は、舌の上でホロリとほどけて消えていく。タレの染みた白飯が、そのすべての旨味を受け止め、さらに食欲を際限なく増幅させてくる。
最高だ。これ以上の朝飯があるだろうか。
濃厚な肉の味を堪能した後は、すかさずカクテキを一つ口に放り込む。
ポリッ、という小気味良い咀嚼音。大根の瑞々しさと、ニンニクの効いた唐辛子の辛味、そして乳酸発酵による爽やかな酸味が、肉の脂を綺麗にリセットしてくれる。
すかさず、ご飯に納豆を乗せる。
フワフワに泡立った納豆は、口当たりが驚くほど滑らかだ。辛子のピリッとした刺激と、大豆の旨味。それを、かまどで炙ったばかりのパリパリの焼き海苔でご飯ごと巻いて食べる。磯の香りが鼻に抜け、また違った味わいのベクトルが脳を刺激する。
肉じゃが丼の濃厚な甘辛さ。
カクテキとキムチの辛味と酸味。
納豆と海苔の風味。
そして、それらを優しく包み込むキャベツの味噌汁。
「たまらんな、これは……」
俺は無心になって箸を動かした。
小皿に乗せた昆布の佃煮も、ご飯の最高のお供だ。濃いめの味付けが、無限に白飯を要求してくる。結局、土鍋いっぱいに炊いたはずのご飯を、俺とハクの二人であっという間に平らげてしまった。
『おっさんの食いっぷり見てたら腹減ってきた……』
『納豆を海苔で巻くの最高すぎるだろ』
『カクテキのポリッて音、マイクが拾っててめっちゃASMR』
『神獣も負けじと木桶舐め回してるぞ』
『この配信見てると、俺の食べてるカロリーメイトがただの木屑に思えてくる』
食後の温かい緑茶をすすりながら、俺はふうっと大きく息を吐いた。
腹の底から満たされる、圧倒的な幸福感。澄んだ空気の中で、自分が作った美味い飯を腹いっぱい食う。ただそれだけのことが、どれだけ贅沢なことだったか。温かい茶が、食道の奥をじんわりと温めていく。
「ごちそうさまでした。いやぁ、美味かったな、ハク」
俺が言うと、顔中をご飯粒とタレだらけにしたハクが、満足げに「ワフゥ」と鳴いて俺の膝に顎を乗せてきた。俺は苦笑しながら、手ぬぐいでハクの口周りを丁寧に拭いてやる。
『ごちそうさまでした』
『見てるだけでお腹いっぱいになる謎の満足感』
『てか、同接二十万超えてるんだけど……』
『そりゃそうだよ。ギルド本部も政府も、今頃この映像見て頭抱えてるはずだからな』
画面の中のコメントが示す通り、俺のこの何気ない朝飯の風景は、世界中の探索者や権力者たちの度肝を抜くには十分すぎるものだったらしい。
だが、そんな外の世界の騒ぎなど、今の俺にはどうでもいいことだ。
「さて、食休みが終わったら、少しこの周辺を散策してみるか。もしかしたら、美味そうな野草でも生えてるかもしれないしな」
俺がのんびりとそう呟くと、ハクが賛同するように「ワフッ」と嬉しそうな声を上げた。
画面の中でどう足掻いても追いきれない速度で流れていくコメントの濁流を眺めながら、俺はマグカップに残った緑茶をゆっくりと飲み干した。




