第4話 ヤケクソ配信スタート
豚バラ肉のコーラ煮と山盛りの白飯という、背徳的で胃袋の限界を試すような夜食を平らげた後。
俺は大きく息を吐き、キャンピングチェアの背もたれに深く体重を預けた。満腹感と心地よい疲労感が、全身の筋肉をじんわりと弛緩させていく。
「……食ったな。お前、ほんとによく食うわ」
俺の足元では、五キロの肉とそれなりの量の米を胃袋に収めたはずのハクが、仰向けになってだらしなく腹を見せている。丸太のように太い尻尾が、満足げにパタパタと地面を叩いていた。神話の魔獣の威厳など、欠片も残っていない。ただの満腹になって甘える巨大な犬だ。
「さて、片付けるか」
俺はよっこいしょと立ち上がり、空になったダッチオーブンや木の器、フライパンをかまどの横にまとめた。
野営において、調理器具の洗浄と後片付けは面倒だが命に関わる重要な作業だ。血や脂の匂いを残したまま放置すれば、たちまち凶悪なモンスターを引き寄せる原因になる。もっとも、ここは最深部のボス部屋で、当のボスが足元でへそ天をしているという異常事態なのだが、長年の下積みで染み付いた習慣はそう簡単に抜けない。
俺は『極・生活魔法』を発動した。
空中にソフトボール大の水球を生成し、それを細い高圧の水流に変化させてダッチオーブンに吹き付ける。水流は俺の意思通りに鍋の曲面に沿って渦を巻き、こびりついた豚の脂と焦げ付きを物理的に削り落としていく。
洗剤など使わない。純水に近い水質と、研磨剤のように操る水流の圧力だけで、鉄鍋はあっという間に元の黒光りする状態に戻る。
続いて〈温風〉の魔法を指先から放ち、表面の水滴を一瞬で蒸発させて乾燥させる。サビを防ぐための油を薄く引き直し、蓋をして保管箱へ。木の器やカトラリーも同様に処理する。残った生ゴミや廃油は、まとめて小さな土の窪みに入れ、魔法の炎で完全に灰になるまで焼却した。
この間、およそ二十秒。
「赫き剣」の連中にこき使われていた時は、彼らが寝静まった後に凍えるような冷水で何十個もの食器を洗わされていた。文句を言えば罵声が飛んでくるような環境だ。どうにかして少しでも睡眠時間を確保するために、俺の生活魔法の〈洗浄〉や〈焼却〉プロセスは異常なまでの進化を遂げていた。今となっては、ただの手癖のようなものだ。
「よし。次は食後のコーヒーだな」
アイテムボックスから取り出したのは、麻袋に入った生のコーヒー豆だ。市販の焙煎豆も手軽でいいが、時間に余裕がある夜は生豆から煎るに限る。これもまた、劣悪な環境のダンジョン内で少しでも正気を保つために身につけた趣味の一つだった。
平たいフライパンに豆を広げ、かまどの熾火の上にかざす。ただ火にかけるだけでは焼きムラができるため、生活魔法で熱の伝わり方を均一にコントロールしつつ、チャフを風の魔法で軽く吹き飛ばしていく。
しばらくフライパンを規則的に揺すっていると、パチッ、パチッという軽快なハゼる音が響き始めた。青臭かった豆が深い褐色へと変わり、芳醇な香りが夜の空気に溶け出していく。
「いい色だ」
完璧な中深煎り。手動のミルで豆を挽き、ドリッパーにペーパーフィルターごとセットする。〈浄水〉した湖の水をケトルで沸かし、細い湯線をゆっくりと落としていく。プクゥと膨らむコーヒーの粉のドームから、脳を覚醒させるような素晴らしい香りが周囲に広がった。
「ふぅ……」
淹れたてのブラックコーヒーをチタン製のマグカップに注ぎ、再びキャンピングチェアに腰を下ろす。
一口飲むと、クリアな苦味と深いコクが口の中の脂っこさを綺麗に洗い流してくれた。最高だ。ため息が出るほど美味い。
ふと、視界の端で何かがチカチカと光っているのに気づいた。
岩の上に立てかけていた、俺の通信端末だ。ダンジョンに落ちてすぐ、遺言のつもりでカメラをオンにしたまま、完全に存在を忘れていた。バッテリー残量はまだ半分以上ある。ダンジョン内でも微弱な魔力を吸って充電される特注品とはいえ、よくもっている。
「あー、そういえば配信つけっぱなしだったな。誰か見てたんだろうか」
俺はコーヒー片手に端末を手に取り、画面を覗き込んだ。
その瞬間、俺は熱いコーヒーを盛大に吹き出しそうになった。
「は……? じゅ、十万人……?」
画面の右上に表示されている同接の数字が、システムのエラーを疑うように跳ね上がり続けており、ついに十万の大台を突破していた。いや、俺が目を丸くしている間にも十一万、十二万と増え続けている。日本のトップD-Tuberでも、深夜のゲリラ配信でここまでの数字を叩き出すことは稀だ。
普段の俺の「名無し_キャンプ配信」など、多くて五人、少なければ同接ゼロが当たり前の底辺チャンネルである。
そして、画面の下半分を埋め尽くすコメント欄は、もはや目で追うのが不可能なほどの速度で文字の滝が流れている。
『おっさん! 画面見た!?』
『生きてたあああああ!!』
『早く逃げて! 後ろ! 後ろにいるから!!』
『なんでそんな落ち着いてコーヒー飲んでんの!? あんたの足元にいるの、天狼だぞ!?』
『いやもう手遅れだろ、完全に距離詰められてる』
『てか、あの洗浄魔法と焙煎の技術おかしいだろ! 水圧カッターかよ!』
凄まじい速度で流れるコメントから、俺はどうにかいくつかの言葉を拾い読みした。
どうやら、視聴者たちは俺が巨大なモンスターに襲われる寸前だと思ってパニックになっているらしい。そりゃそうか。普通の感覚なら、最深部でこのサイズの魔獣が背後にいれば、すでに食いちぎられていると考えるのが自然だ。
「あー……テステス。マイク、聞こえてるか?」
俺が画面に向かって声をかけると、コメントの流れる速度がさらに一段階上がり、画面が白く埋め尽くされた。
『聞こえてる!!』
『喋った!』
『遺言なら聞くぞおっさん!』
『動くな! 刺激するな! ギルドの討伐隊が向かってるはずだから!』
『逃げろと言いたいけど、動いたら確実にやられる!』
ギルドの討伐隊がこんな最深部まで来るはずがないだろう、と内心でツッコミを入れつつ、俺は端末のカメラを自分の足元に向けた。
そこには、仰向けになってだらしなく腹を出し、俺の足首に巨大な頭をすり寄せて熟睡し始めているハクの姿がはっきりと映し出された。
「えっと……みんなが言ってるフェンリルって、こいつのことか?」
俺がハクの柔らかい腹を足の裏で軽く撫でてやると、ハクは「フゥン」と気持ちよさそうな鼻息を漏らしてさらに脱力し、前足を力なく投げ出した。
『は?』
『え?』
『…………は?』
『腹見せてる……だと……?』
『神獣が……へそ天……?』
『嘘だろ、人類最大の脅威だぞ!? 近代兵器すら通用しないって言われてるのに!』
コメント欄が、一瞬だけピタリと止まり、直後に爆発的な勢いで疑問符と驚愕の言葉が乱舞し始めた。
「いや、人類最大の脅威とか、何かの見間違いじゃないか? どう見てもただのデカい犬だけど」
俺は本気でそう思っていた。
確かにサイズは異常にデカいが、肉を焼けばヨダレを垂らして待つし、腹いっぱいになればへそ天で寝る。撫でてやればゴロゴロと喉を鳴らす。俺を襲おうとする殺気など、出会った瞬間から微塵も感じられない。
「ちょっとよく食う、普通の犬だぞ。俺がさっき肉を焼いてたら匂いにつられて出てきたから、少し分けてやったんだ。そしたら懐いちゃってな」
『少し(五キロの和牛ブロック+コーラ煮)』
『普通の犬(かつてAランクパーティーを3つ壊滅させた神獣)』
『懐いちゃってな(テイム難易度:測定不能)』
『おっさんの認識がバグりすぎている』
『いやいやいや! おっさん、そこ未踏の最深部だろ!? Fランクの荷物持ちがなんで生きてんの!?』
誰かが俺の素性を特定したのか、Fランクという言葉がコメント欄に流れた。隠すようなことでもないので、俺は頷いた。
「お、よくわかったな。そうだよ、俺はFランクの『赫き剣』専属荷物持ち……いや、あいつらに囮にされてここに落ちたから、元・専属荷物持ちか」
俺が淡々と事実を述べると、コメント欄の空気が一変した。怒りや同情の言葉が入り乱れる。
『は!? 囮にされた!?』
『赫き剣って、あのルーキー筆頭のAランクパーティーか!?』
『最低だなあいつら……』
『でも待て、Fランクの荷物持ちが、なんであんな異常な生活魔法使えるんだよ! ペグの同化とか水圧洗浄とか、Aランクの魔法使いでも無理だぞ!』
「ん? 魔法? ああ、戦闘スキルはゼロだからな。生き残るために飯炊きと雑用だけは極めたんだ」
俺がコーヒーをすすりながら軽く答えると、コメント欄は深い絶望と呆れに包まれたような反応を見せた。
『才能の無駄遣いにも程がある』
『ステータスポイントの割り振り間違えた結果、限界突破しちゃった系か……』
『戦闘力ゼロのおっさんが、料理の腕一本で神獣をテイムしたってことかよwww』
『わけがわからないよ……』
「テイムなんて大層なもんじゃない。ただの餌付けだ。……なあ、ハク」
俺が名前を呼ぶと、ハクはビクッと耳を動かし、仰向けのまま首だけを持ち上げて俺の顔を見た。その口角がわずかに上がり、まるで笑っているように見える。
『ハクって呼んだぞおい』
『神獣にポチみたいな名前つけてる……』
『でもハクちゃんめっちゃ嬉しそう』
『尊い』
どうやら、視聴者たちの恐怖は薄れ、困惑から謎の熱狂へと変わりつつあるようだった。
「まあ、そういうわけだ。上に戻る道もわからんし、当分はここでこのデカい犬と一緒にキャンプでも続けるさ。食い物と暇を潰す道具だけは、アイテムボックスに一生分くらい溜め込んであるからな」
俺は大きく背伸びをした。
どうせ帰れないのだ。彼らへの恨み辛みがないわけではないが、今さらジタバタしたところで仕方がないし、外の連中に心配されてもどうにもならない。
ここは気候もいいし、水も綺麗だ。何より、俺のメシを不味そうに食う鬱陶しい連中がいない。これ以上の贅沢があるだろうか。
俺はアイテムボックスから、使い込まれた獣毛のブラシを取り出した。
「ほらハク、ちょっと起きろ。ブラッシングしてやるから」
俺が声をかけると、ハクは「ワフッ」と嬉しそうに鳴いて身を起こし、俺の前にペタンと座り直した。
俺がブラシをその純白の毛並みに入れ、ゆっくりと梳かしていく。想像以上に毛が柔らかく、ブラシが滑るように通っていく。ハクは目を細め、喉の奥でゴロゴロと重低音を響かせ始めた。抜けた毛が風に乗って舞っていく。
『神獣のブラッシングとか、どんな特権階級だよ』
『毛並みツヤツヤすぎる……触りたい……』
『モフモフASMR助かる』
『この配信、ヤバすぎる。一生見てられるわ』
【『マドモアゼル・C』が10,000円のスーパーチャットを送信しました:『素晴らしい毛並みですわ! もっとその子のASMRをお願いします!』】
不意に、画面の端に派手なエフェクトと共に赤い帯が表示された。
投げ銭だ。
「お、一万円? マドモアゼル……さん、ありがとう。でも、金もらってもここで使える場所がないんだよな。まあ、ハクが気持ちよさそうにしてるから、適当に音だけ楽しんでくれ」
俺は苦笑しながら、ひたすらハクの毛を梳かし続けた。
シャッ、シャッという心地よいブラシの音と、ハクのゴロゴロという喉鳴らし、かまどで薪が爆ぜる音、そして遠くから聞こえる湖のさざ波の音が、マイクを通して十万人の視聴者に届けられていく。
「さて……明日の朝飯は、何にしようかな。厚切りのベーコンがあるから、ホットサンドでも焼くか」
誰にともなく呟きながら、俺は夜空――正確には最深部の天井――をのんびりと見上げた。




