第51話 フェス翌日の二日酔いと、しじみ汁の優しさ
はるか上空の分厚い岩盤に張り巡らされた疑似太陽が、ゆっくりと白み始めた。
深淵の迷宮の最深部、青白い発光苔が群生する湖畔のキャンプサイトを満たしていたのは、かつてないほどの壮絶なうめき声といびきの二重奏だった。
草むらのあちこちには、フランスの最高峰シャトーの赤ワインや、ロシアの幻のウォッカ、果ては年代物のシングルモルトなど、世界各国から持ち込まれた極上酒の空き瓶が数十本も無造作に転がっている。石造りのかまどの脇には空になった大鍋や巨大な魔獣の骨が乱雑に積まれ、昨夜の狂乱の宴の爪痕を色濃く残していた。
「オー……マイ、ヘッド……。頭の中で、アビス・トロールが全力でタップダンスを踊っている……」
大木の根元で大の字になっていたアメリカのトップ探索者ジョンが、両手で頭を抱えながら寝返りを打った。強靭な肉体を誇る彼でさえ、今の顔色は土気色だ。
平らな岩の上で丸くなっているカリームも、「砂漠の直射日光を3日3晩浴びたような渇きだ……」とかすれた声でうめき、額に冷や汗を浮かべている。
巨大な城のようなテントからは、普段の完璧な優雅さの欠片もなく、クロエが入り口から顔だけを覗かせて死んだ魚のような目をしていた。エミリアやユジン、そして有給消化中のハナに至っては、テントの中でピクリとも動かない。
「……バカだな、こいつら」
石造りのかまどの前で、俺は一人呆れたようにため息をついた。
日頃から探索者としての過酷な生活に身体が慣れきっているためか、俺はいつも通りの時間に目が覚めていた。足元では、ハクが豆柴サイズのまま、欠伸をして短い尻尾を振っている。
手元の木製テーブルには、あらかじめ準備しておいた自家製の分厚い燻製ベーコンと、スライスした食パン、そしてオニオンスープ用の玉ねぎが並んでいる。昨晩の宴の最後に「明日の朝ごはんは、焼きたてのホットサンドだからな」と約束した手前、早くから仕込みを始めていたのだ。
しかし、死屍累々といった有様のSランク探索者たちを一瞥し、俺は静かにベーコンをアイテムボックスへと戻した。
「この胃袋じゃ、ベーコンの脂は無理か」
予定を変更し、俺はインベントリから別の食材を取り出した。
少し前に久美子が浅い階層の泉で採集してきていた『アビス・シジミ』だ。ハマグリほどの大きさがある漆黒の殻を持ち、すでに真水で1晩かけて完璧に砂抜きを済ませてある。
かまどの火を弱火に落とし、大鍋に張った昆布出汁の中にシジミを静かに入れる。
水からじっくりと熱を入れていくことで、シジミの身が急激に縮むのを防ぎ、旨味成分であるコハク酸を最大限に引き出す。
やがて、鍋の底から小さな気泡が上がり始めると、パカッ、パカッと音を立てて漆黒の殻が次々と口を開き始めた。透き通っていた黄金色の昆布出汁が、シジミから溢れ出す濃厚なエキスによって、みるみるうちに白濁していく。
丁寧にアクをすくい取り、煮立たせる直前で火を止めた。そこに、コクの強い赤味噌をベースに、マイルドな白味噌を少しだけブレンドした合わせ味噌を溶き入れる。
赤出汁の香ばしい匂いと、シジミの強烈な磯の香りが、朝の冷たい空気の中にフワリと広がった。
「……んん……」
その匂いに最初に反応したのは、テントの影で丸くなっていた久美子だった。寝袋を引きずったまま、フラフラとゾンビのような足取りでかまどに近づいてくる。
それを合図にしたように、ジョン、カリーム、そしてテントから這い出してきた女性陣が、無言のまま吸い寄せられるように俺の周りに集まってきた。全員、焦点の定まらない目で鍋を見つめている。
「ほら、しじみ汁だ。それと、土鍋で炊いた白飯。胃に何もないと逆に気持ち悪いだろ。ゆっくり飲め」
俺が木のお椀にたっぷりのしじみ汁を注いで渡すと、ジョンは震える巨体でお椀を両手で包み込んだ。
一口すすった瞬間、ジョンの口から深く、長い息が漏れた。
「……ッ、はぁぁ……。全身の細胞に染み渡るぜ……」
白濁したシジミの強烈なエキスが、アルコールで疲れ切った肝臓と、重く沈んだ胃袋に直接染み渡っていく。濃厚な旨味が赤味噌の塩気と深いコクによってまとめ上げられ、内臓を内側から優しく撫で回すような感覚。
カリームは無言のままお椀を傾け、静かに汁を喉の奥へと流し込み続けた。やがて、空になったお椀を両手で持ったまま、その目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「熱っ……でも、美味しい……胃の裏側がじんわり温かくなって……」
エミリアもハナも、お椀に顔を埋めるようにしてシジミの身をつまみ、無心で汁を飲み干している。
濃厚なシジミの旨味を吸った土鍋ご飯を1口かじり、また汁をすする。ただそれだけのシンプルな食事が、今の彼らにとっては何十万円もする高級料理以上の価値を持っていた。
「ふう……生き返った……」
全員が3杯目のおかわりを終え、
ようやく顔に血の気が戻ってきた頃だった。
ズゴンッ!
キャンプサイトの端に設置された『公式食材受け取り用転移陣』が、控えめな青白い光を放った。
「……ん? 昨日であらかた送られてきたはずだが、まだ何かあるのか?」
俺が振り返ると、ハナが少しバツの悪そうな顔をして立ち上がった。
「あ、それ……多分、私宛てです。日本のギルド本部に、個人的に頼んでおいた定期便で……」
ハナが転移陣から受け取ったのは、厳重に冷却パックされた木箱だった。蓋を開けると、中には綺麗に整えられた生蕎麦のパックと、土がついたままの小ぶりな大根が数本入っている。
「日本の最高級の生蕎麦と、信州産の『辛み大根』ね」
中身を見た俺は、思わず口角を上げた。
「昨日の夜、肉の脂にやられたらこれでさっぱり締めようと思ってたんですけど、フェスの勢いに押されてすっかり忘れてて」
「なるほどな。ちょうどいい。しじみ汁で胃袋が動くようになったところで、こいつで完全に頭の芯まで目を覚まさせるか」
俺は木箱から辛み大根を取り出し、生活魔法の水流で綺麗に土を洗い流した。
普通の大根の半分以下のサイズだが、水分が少なく、身がギュッと詰まっている。俺はアイテムボックスから、職人が手打ちした銅製の極細目のおろし金を取り出した。
「おじさん、それ大根? おろすのなら私が手伝うわよ。短剣の素振りも兼ねて」
少し調子を取り戻したユジンが腕まくりをして近づいてきたが、俺は首を横に振った。
「悪いが、こいつは手加減を知らないと味が死ぬんだ。見てろ」
俺はまな板の上に濡れ布巾を敷き、おろし金をしっかりと固定した。
大根は皮を剥かず、一番辛味の強い先端部分からおろしていく。一般的な大根おろしのように、円を描いて空気を含ませるような優しいおろし方はしない。
おろし金の鋭い刃に対し、大根の繊維を直角に当て、上から下へと力を込めて一気に『直線』にすりおろす。
シャッ、シャッ、シャッ!
小気味良い、しかし力強い摩擦音が周囲に響く。
直線でおろすことで、大根の細胞を容赦なく徹底的に破壊するのだ。辛み大根の細胞内に閉じ込められている成分が破壊されることで酵素と反応し、強烈な辛味成分であるアリルイソチオシアネートが爆発的に生成される。
おろしたての大根からは、すでにツンとした揮発性の辛い匂いが立ち昇り始め、ユジンが「……っ、目にくるわね」とわずかに顔をしかめた。
おろし終わった大根の水分を、目の細かいザルで軽く、本当に軽く自然に落ちる分だけ切る。絞りすぎれば風味が飛び、水分が多すぎれば蕎麦つゆが薄まる。この絶妙な塩梅が命だ。
並行して、隣の大鍋で沸騰させたたっぷりの湯に生蕎麦を放り込む。
菜箸で軽く泳がせ、規定の茹で時間よりもほんの10秒ほど早く引き上げる。そして即座に、生活魔法で極限まで冷やした氷水の中へ蕎麦を落とし、両手で揉み込むようにして表面のぬめりを取りながら、一気に麺を締めた。
「辛み大根のおろし蕎麦だ。つゆに大根をたっぷり溶かして、蕎麦に絡めて一気にすすれ。途中で咽せるなよ」
大きな竹ザルに盛られた冷たい蕎麦と、徳利に入った濃いめのつゆ。そして、小鉢に山盛りにされた真っ白な辛み大根おろし。
ジョンが不器用な手つきで箸を持ち、猪口につゆを注いで大根おろしをたっぷりと投下した。そして、蕎麦を少しだけ浸し、ズズッ!と音を立てて勢いよくすする。
直後。
「ッ……!!!???」
ジョンの目が見開き、巨大な身体がビクンと跳ねた。
噛み締めた瞬間、氷水で締められた蕎麦の鮮烈な香りと強いコシが口に広がる。だがその直後、辛み大根の暴力的なまでの辛味が鼻腔を勢いよく駆け抜けた。
唐辛子のような痛みを伴う辛さではない。ワサビやマスタードをさらに鋭利にしたような、純度の高い『鮮烈な辛味』。それが、鰹節の効いた濃いめのつゆの旨味と完璧に融合し、二日酔いで靄がかかっていた頭の芯をこじ開けて、強制的に目を覚まさせる。
「オー、マイ、ゴッド……! 鼻が、頭が、スパークしたぜ……!!」
ジョンは涙目になりながらも箸を止めることができず、次々と蕎麦をすすり続けた。
カリームも、ユジンも、ハナも、強烈な辛さに「はふっ」「んんっ!」と声を漏らしながら、無心で蕎麦を胃袋へと流し込んでいる。
しじみ汁で癒やされた胃袋に、キリッと冷たい蕎麦と、細胞を限界まで破壊した大根おろしの刺激が、これ以上ない爽快感をもたらしていた。
「ぷはぁっ……! 完全に、完全に目が覚めたわ……!」
最後の1口を飲み込み、蕎麦湯で割ったつゆを飲み干したハナが、憑き物が落ちたような晴れやかな顔で息を吐いた。
「すごいな、ヒロト。俺の頭の中にいたトロールは、今の蕎麦で完全に消し飛んだぜ!」
ジョンが巨体を揺らして立ち上がり、ハハハ!と豪快に笑った。その横で、カリームも満足げに髭を撫でている。
完全に二日酔いから復活した世界最強の探索者たちが、期待に満ちた目で一斉に俺を見た。
「さて、ヒロト! 胃袋のコンディションは完璧だ! 今日のランチは、一体何を食わせてくれるんだ!?」
「……お前ら、少しは自重って言葉を覚えろよ」
俺の呆れた声と、足元で「飯か!?」と尻尾を振るハクの鳴き声が、最深部の澄んだ空気に吸い込まれていった。




