第49話 世界最大・最高の飯テロ配信
漆黒の水底で明滅する黄金の光。
それに呼応するように、ハクが牙を剥き出しにして湖面へと放った地を這うような咆哮は、深淵の迷宮の最深部を文字通り震わせた。
「……ッ!」
「オー、マジかよ……!」
青白い発光苔が群生する湖畔のキャンプサイト。直前まで各国の持ち込んだレア食材を前に歓声を上げていたSランク探索者たちの空気が、一瞬にして凍りついた。
アメリカのジョンが巨大な戦槌を構え、フランスチームの面々が瞬時に魔力障壁を展開する。中東のカリームも、腰の湾刀を引き抜いて水際を鋭く睨みつけた。エミリアやユジンたち日本拠点組も、それぞれの得物を手に取り、臨戦態勢に入っている。
ハクの放った絶対的な威圧感と、湖底に潜む未知の巨大質量の気配。空気が重く張り詰め、誰もが息を呑んで水面の動きに全神経を集中させていた。
だが、数十秒の緊迫した沈黙の後。
水底で揺らいでいた黄金の光は、ハクの咆哮に押し返されるようにして、再び深層の闇の中へとゆっくり沈んでいった。波立っていた湖面も、次第に元の静けさを取り戻していく。
「……上には上がってこないみたいだな」
石造りのかまどの前で、分厚い鉄板の火加減を調整していたヒロトが、トングを持ったまま静かに呟いた。
足元では、先ほどまで毛を逆立てていたハクが、再び短い尻尾をパタパタと振りながら「フンッ」と鼻を鳴らし、かまどの前に戻ってきてお座りの姿勢をとっている。自身の縄張りを主張し終え、完全に「飯待ち」のモードに切り替わったらしい。
「あの……ヒロトさん。今の、明らかに規格外の魔物の気配でしたけど……」
エミリアが大剣を握りしめたまま、困惑したように声をかけた。
「ハクが睨みを効かせてる間は、向こうも不用意には突っ込んでこないだろ。……それより、せっかくの肉が冷めるぞ。腹減ってないのか?」
ヒロトはそう言うと、鉄板の上で香ばしい煙を上げているアビス・マンモスの極厚ステーキをひっくり返した。ジュワァァァッという激しい音と共に、野性味の中にどこか澄んだ甘さを感じる極上の脂の匂いが、張り詰めていた空気を強引に上書きしていく。
「えっ……あ、いや、それは……」
各国のトップ探索者たちは、武器を構えたまま互いに顔を見合わせた。
目の前の巨大な湖には、間違いなく世界を滅ぼしかねない脅威が潜んでいる。だが、振り返ればそこには、世界最高峰のレア食材が完璧な火加減で調理され、暴力的なまでの匂いを放っている。
数秒の葛藤の後、真っ先に動いたのはジョンだった。
「……HAHAHA! 違いない、冷めた肉を食うなんて探索者の恥だ! 脅威が来たら、このエネルギーで叩き潰せばいい!」
ジョンは豪快に笑いながら戦槌を背中に戻し、手づかみでキングクラブの極太の脚をもぎ取ってかぶりついた。それを皮切りに、他の探索者たちも次々と武器を収め、テーブルへと群がっていく。
かくして、深淵の迷宮の最深部を舞台にした、世界最大の宴が幕を開けた。
「美味いっ! なんだこの蟹の甘さと弾力は!」「俺たちのマンモス肉が、こんなに柔らかく香ばしいステーキになるなんて……!」
アメリカのキングクラブの豪快な炭火焼き、フランスのコカトリスを丸ごと使った香草ロースト、中東の幻影の香辛料を効かせたサンド・ベヒーモスの串焼き。広大な平地に並べられたいくつものテーブルには、猛者たちの歓喜の声が入り乱れる。
少し離れた岩場に三脚を立て、配信端末のモニターを確認していた村田琴美は、画面の隅の数字を見て小さく息を吐き出した。
『同接:100,034,218』
1億人。
濁流のように凄まじい速度で流れる多言語のコメントが、世界中の人間がこの常軌を逸した宴を固唾を飲んで見つめていることを示している。琴美は震えそうになる指に力を込め、カメラのピントを、かまどの前で手際よく肉を焼き続けるヒロトの背中へと合わせた。
宴の熱気が1段落し、強者たちが極上の酒と肉の余韻に浸り始めた頃合い。
ヒロトはかまどの上の巨大な鉄板やダッチオーブンを生活魔法で片付けると、代わりに重厚な特大の土鍋を火にかけた。
「よし。そろそろ脂モノにも満足してきた頃だろ。宴の〆といくか」
ヒロトが声をかけると、エミリアやユジンたちが待ってましたとばかりに顔を輝かせた。腹八分目まで肉を詰め込んでいるはずのハクも、ヒロトの足元へ擦り寄ってくる。
十分な蒸らし時間を経て、ヒロトが土鍋の重い蓋を持ち上げた。
ブワッと立ち昇った純白の湯気と共に、米の持つふくよかで甘い香りが、肉やスパイスの匂いで満ちていたキャンプサイトの空気に混ざり合う。土鍋の中には、真珠のように艶やかに光り、1粒1粒がしっかりと立った炊きたての白飯が、ぎっしりと詰まっていた。
ヒロトは木のボウルに用意した塩水に両手を浸し、パンッと軽く手を合わせて余分な水分を飛ばす。そして、木杓文字で熱々の白飯をすくい取り、手のひらへ乗せた。
チャッ、チャッ。
静かなリズミカルな音が響く。外側は形が崩れないように壁を作りつつ、内側にはふわりと空気を含ませる絶妙な力加減。3回、4回と転がすだけで、美しい三角形のお握りが次々と完成していく。
具材は2種類だ。
1つは、アイテムボックスに保管してあった極上のタラコ。事前に七輪の備長炭で表面だけをチリッと香ばしく炙ってある。外側はパリッとしつつ中心部は鮮やかな薄紅色の半生状態。それを大ぶりに千切り、熱々の白飯の中央に埋め込む。
もう1つは、肉みそだ。
これまでの野営で出たアビス・ミノタウロスや猪肉の端材を細かく叩き、自家製の赤味噌、酒、砂糖、おろし生姜を加えて、フライパンで水分が飛ぶまで炒め煮にしたもの。獣肉の野性味あふれる旨味が、甘辛い味噌の中に完全に封じ込められている。
「みそ汁もよそってくれ。熱いうちに運ぶぞ」
ヒロトの指示で、久美子とハナが隣の寸胴鍋からお椀に汁を注いでいく。
昆布とたっぷりの厚削り鰹節から取った1番出汁。そこに、傘が開く前の大ぶりで肉厚なナメコを投入し、赤味噌と白味噌をブレンドした合わせ味噌を溶き入れた。仕上げに散らした三つ葉の爽やかな香りが漂う。
木製の大きな盆には、海苔を巻いていない純白のお握りが山と積まれ、横には自家製の糠床で漬け込んだ大根の浅漬けと、塩と紫蘇だけで漬けた大粒の紀州南高梅が添えられた。
「よし、出来たぞ。食え」
ヒロトがテーブルに盆を置いた瞬間、エミリアが真っ先に焼きタラコのお握りを両手で持ち、かぶりついた。
「……んんっ!」
エミリアの碧眼が見開かれた。
表面の米はしっかりと結ばれているのに、歯を立てた瞬間に内側からほろりと米粒がほどけていく。熱で溶け出したタラコの半生部分の濃厚な塩気と旨味が、ふっくらとした米の甘みと混ざり合い、噛み締めるほどに口の中がたまらない幸福感で満たされていく。
海外のSランク探索者たちも、見よう見まねでお握りに手を伸ばす。
アメリカのジョンが、肉みそのお握りを1口かじり、そのまま目を見開いて動きを止めた。
「オー……なんだこのライスは……。さっきの極上ステーキのガツンとくる旨さとは全く違うぞ……!」
ジョンは手元の三角形を信じられないものを見るような目で見つめた。
口の中でほどけた米粒の隙間に、甘辛く濃厚な肉みそが絡みつく。米という素材そのものの自然な甘さが、獣肉の脂と味噌のコクを完璧に受け止め、引き立てている。単体で食べる肉料理とは次元の違う、計算し尽くされた味の相乗効果。彼はそれ以上言葉を発することなく、ただ無心で米と肉みそを胃袋へと流し込み始めた。カリームやフランスの探索者たちも同様に、驚きの表情の後は脇目も振らずに咀嚼を繰り返している。
お握りを1つ平らげたところで、彼らはお椀に口をつけた。
ずずっ、とナメコのみそ汁をすする。
「……はぁぁ……」
ハナが、深い溜息を吐いた。
喉の奥へ流れ込む温かい鰹出汁と、合わせ味噌の深いコク。ナメコのつるりとした食感が、豪華な肉や油で少し疲れていた胃を、じんわりと優しく撫でていく。体の芯からホッとするような、ただひたすらに温かな感覚だった。
合間に、パリッとした大根の糠漬けをかじり、酸っぱくて塩辛い梅干しを少しだけちぎって口に含む。強烈な酸味が口内をリセットし、すぐさま次のお握りへの欲求を呼び覚ました。
『なんだこれ……見てるだけで腹が減って痛い』
『カニとか肉の時はスゲーって感じだったのに、お握りになった瞬間、無性に食べたくなって涙出てきた』
『シンプルなのに、手元や米のツヤが狂ってる。絶対美味いやつだこれ』
『おっさん、お願いだから俺の家に来て握ってくれ』
1億人が見つめる画面の向こうで、コメント欄は悲鳴と奇妙な一体感に包まれていた。
湖畔のキャンプサイトには、国籍もランクも関係なく、誰もが両手にお握りとお椀を持ち、満面の笑みでそれを頬張るという光景が広がっている。足元では、ハクが専用の巨大な木桶に山盛りにされたお握りを、尻尾を千切れんばかりに振りながらバクバクと飲み込んでいた。
「……まあ、悪くない食いっぷりだな」
ヒロトはかまどの前で1人、温かいほうじ茶の入った湯呑みを傾けながら、その景色を静かに見渡した。
そして、自分用に残しておいた焼きタラコのお握りを手に取り、大きく口を開けてかじりついた。




