第48話 超巨大キッチンと最後の仕込み
「オー! ユーがヒロト・ヤマモトか! 素晴らしい、画面で見るよりずっとタフな体つきだ!」
湖畔のキャンプサイトの端に設置された『公式食材受け取り用転移陣』から飛び出してきたアメリカのトップ探索者、ジョン。彼が満面の笑みで巨大なアビス・キングクラブを掲げたのを皮切りに、空間の歪みは次々と新たな訪問者たちを吐き出し始めた。
「遅れを取るな! ロシアの誇るアビス・マンモスのブロック肉だ、どこに置けばいい!」
「フランス本部からの贈り物ですわ。極上のコカトリス、鮮度は完璧に保ってありますのよ」
「退け退け! 我が国のサンド・ベヒーモスと幻影の香辛料が先だ!」
冷気とオゾンの匂いが入り混じる中、転移酔いなど微塵も感じさせないSランク探索者たちが、我先にと規格外のレア食材を抱えてヒロトの前に群がってくる。広々としていたはずの湖畔の平地は、瞬く間に各国の猛者たちと、彼らが持ち込んだ巨大な肉塊や未加工の魔獣の部位で埋め尽くされ、ちょっとした丘を形成し始めていた。
歓声と、空気を震わせる強烈な魔力の余波がカオスに入り乱れる中、ヒロトは眉間に皺を寄せ、広大な湖の水際へと鋭い視線を送っていた。
騒ぎに掻き消されそうになっているが、足元の地盤からは時折、重く低い振動が伝わってくる。青白い発光苔の光すら届かない漆黒の水底では、ドクン、ドクンと心臓の鼓動のように黄金色の光が不気味な明滅を繰り返していた。
「おい、ハク。水際から離れるな。湖の底から妙なプレッシャーが上がってきてる。何か出てきそうならすぐに報せろ」
ヒロトが声をかけると、定位置で丸くなっていた豆柴サイズのハクが短い足で立ち上がり、湖面に向かって低く喉を鳴らした。
「……それにしても」
ヒロトは腕を組み、背後に積み上げられた食材の山と、自分の身長の半分ほどしかない石造りのかまどを交互に見比べた。
「流石に、このかまど1つとダッチオーブン2つだけじゃ、これを明日の宴までに仕込むのは物理的に不可能だな。かまどを増設するにしても、これだけの種類と量を同時進行で捌くには熱源が足りない」
ヒロトが呟いた、その時だった。
「私の出番ね」
作業用ゴーグルを額に押し上げた籐子が、血走った目にギラギラとした光を宿して立ち上がった。
彼女は自身のアイテムボックスから、これまでダンジョンで採取してきた耐熱性の高いアビス・クォーツや未知の金属装甲を次々と取り出すと、両手を地面についた。
「『魔導錬成』。……出力、最大」
青白い魔力の光が幾何学的な紋様を描きながら地面を走り、金属や鉱石を凄まじい速度で分解、再構築していく。
耳障りな金属の軋む音と、空気を焦がすような熱が周囲を包み込んだ。数十秒後。そこには横幅20メートルにも及ぶ、工場か要塞かと見紛うほどの「超巨大全自動魔導キッチンシステム」が完成していた。
環境マナを直接熱源に変換する10口の魔導コンロ。大人が立って入れるほどの巨大な魔導オーブンが3基。そして、以前作ったものをさらに大型化させた全自動魔導燻製機が、低く重厚な駆動音を立てている。
「火力の微調整は貴方の魔法操作と完全にリンクするよう設定したわ。さあ、思う存分料理しなさい!」
「デタラメな腕だな、相変わらず。……よし、やるか」
ヒロトは気合いを入れ直し、20メートルの厨房の前に立った。
『極・生活魔法』の干渉領域をキッチン全体へと広げ、魔力の流れを把握する。
「お前ら、美味いもんが食いたいなら手空きの奴は全員手伝え! ジョンはそこにあるキングクラブの殻剥き! カリームはスパイスの調合だ! ロシア組はそっちの肉の血抜きをしておけ!」
ヒロトの怒号が飛ぶと、世界最強のSランク探索者たちが「オーイエス、シェフ!」「承知した!」と嬉々として動き出した。
ヒロトは彼らが下処理した食材を受け取りながら、魔法による精密な温度管理で10口のコンロと3基のオーブンを同時並行で操っていく。
コカトリスは特製の香草マリネ液に漬け込み、巨大な寸胴鍋ではワイバーンの骨と大量の香味野菜を限界まで煮込んで明日のソースのためのフォンを引く。バジリスクの卵は巨大なボウルで数十個単位で撹拌し、アビス・マンモスのブロック肉は筋を叩き切って均等な厚さに切り分けていく。
時折、湖底からの不気味な振動が足元を揺らしたが、百戦錬磨の探索者たちによる完璧な連携と、ヒロトの魔法の圧倒的な処理能力により、山のような食材は数時間のうちに仕込みの形へと姿を変えていった。
★★★★★★★★★★★
日付が変わる頃。
過酷な仕込み作業を終え、巨大なキッチンの火が静かに落とされた。
世界中から集まった探索者たちは、クロエの巨大テントの周囲に自前の野営具を広げ、酒を飲んで盛り上がるか、あるいは疲れ果てて泥のように眠っている。エミリアやユジン、久美子たちも、すでに自分たちのテントで深い寝息を立てていた。
ヒロトは湖畔の石造りのかまどの前で、パチパチと爆ぜる焚き火の炎を見つめていた。時折、闇に包まれた湖面へと視線を走らせる。黄金の光の明滅は先ほどから止まっているが、水底の奥深くで何かが蠢いているような重いプレッシャーは、むしろ強まっているように感じられた。
足元では、ハクが鼻先を前足で隠すようにして伏せ、湖から目を離さないまま低く警戒の息を吐いている。
「お疲れ様ですわ、シェフ」
背後から、シルクのルームウェアにカーディガンを羽織ったクロエが歩み寄ってきた。その手には、コルクを抜かれたばかりの1本のワインボトルと、幾つかのグラスが握られている。
彼女の後ろからは、小島ハナと籐子も、それぞれキャンピングチェアを引きずってついてきた。
「ああ。そっちもな」
「こんな夜は、大人だけで少し静かに喉を潤しませんこと?」
クロエがグラスに注いだのは、フランス産のコート・デュ・ローヌの赤ワインだった。シラーとグルナッシュがブレンドされた、深みのある濃いルビー色。
ヒロトはアイテムボックスから木製のプレートを取り出し、テーブルの中央に置いた。
「ワインなら、これだな」
プレートの上には、ガーリックの香りがついた細長い棒状のパン、グリッシーニ。その先端には、極限まで薄くスライスされたパルマ産のプロシュートが、ふんわりと丁寧に巻きつけられている。
そして横には、常温に戻して適度に柔らかくなった青カビのチーズ、ブルーチーズが添えられていた。
クロエは優雅な手つきでプロシュートの巻かれたグリッシーニを手に取り、サクッと音を立ててかじった。
「……っ」
クロエは小さく息を呑み、目元を熱っぽく染めて口元を覆った。
乾燥したグリッシーニの香ばしい歯触り。そして空気に触れて微かに溶け出していたプロシュートの脂が、口の中の熱で完全にほどけていく。彼女はすかさずグラスを傾け、赤ワインを含んだ。
「……ずるいですわね。プロシュートの塩気と脂が、このシラーの果実味に触れた途端に……ああっ、言葉にするのも野暮ですわ。もう1本、いただいても?」
ハナは何も言わず、プレーンのグリッシーニの先端にブルーチーズをたっぷりと直接なすりつけ、無心で口に運んだ。
青カビの鋭い刺激を噛み砕き、コート・デュ・ローヌの重厚な赤ワインで強引に流し込む。強烈な塩気と濃厚なコクがワインの渋みとぶつかり合い、ハナはキャンピングチェアに深く沈み込んで、長い長い溜息を吐いた。
「……はぁぁ……生きててよかったです……」
激務から解放されたハナは、すっかり憑き物が落ちたような顔で2本目のグリッシーニに手を伸ばした。
籐子も徹夜明けの妙なハイテンションのまま、「塩分とアルコールが脳髄に染みるわね」と呟きながら赤ワインをあおっている。
ワインのボトルが空になったところで、ヒロトは自身の定番である重厚なボトルを取り出した。
アイラ島のシングルモルトウイスキー、ラガヴリン。
グラスに無造作に注がれた琥珀色の液体からは、正露丸や海藻を思わせる、強烈なピート香とヨードの匂いが立ち昇る。
女性陣がその独特の香りに少しだけ目を瞬かせる中、ヒロトは小さな七輪の炭火の上に、細長く切られた赤黒い干物を乗せた。
「ラガヴリンには、これだ」
「それは……鮭とば、ですか?」
ハナが尋ねる。
「ただの鮭とばじゃない。ノルウェー組が持ってきたアビス・サーモンの端材を塩水に漬け込んで、籐子の燻製機でじっくり水分を飛ばした特製品だ。皮目を少し炙ってやると、脂が浮いて柔らかくなる」
表面に微かな焦げ目がつき、チリチリと脂が泡立ち始めた絶好のタイミングで、ヒロトは炙りたてのとばをハナに手渡した。
熱々のとばを少しだけかじったハナは、その瞬間に目を丸くした。
凝縮されたアビス・サーモンの猛烈な旨味と塩気が滲み出してくる。そこに、ヒロトに促されるままラガヴリンを少量だけ口に含んだ。
「……っ、げほっ!」
ハナは強烈なアルコールに小さくむせたが、直後にその表情が恍惚としたものに変わった。
ピートの煙の香りと、とばに染み込んだ燻製の煙。2つの異なる煙の風味が口の中でぶつかり合い、そして完璧に融合している。
「なにこれ……煙と煙なのに、全然喧嘩してない……むしろお互いの旨味を引っぱり上げてる……」
クロエもラガヴリンのグラスを回しながら、とばを囓って艶やかなため息を漏らす。
「ふふふ、この燻製の仕上がり、私の魔導回路の完璧な温度管理の賜物ね」
籐子が誇らしげに胸を張った。
「そうだな。お前の機械がなきゃ、ここまで旨味は凝縮しなかった」
ヒロトはウイスキーをストレートで煽り、静かに燃える焚き火を見つめた。
明日は、これまでに集まったすべてのレア食材を駆使したフルコースの調理が待っている。
ヒロトがグラスに残った最後の一滴を飲み干そうとした、その時だった。
ズズズンッ……!
これまでの地鳴りとは明らかに違う、腹の底を直接殴りつけるような重い振動がキャンプサイトを揺らした。
クロエたちが微かに悲鳴を上げてテーブルに掴まる。
「ハクっ!」
ヒロトが叫ぶより早く、伏せていたハクが弾かれたように立ち上がり、牙を剥き出しにして湖面へと咆哮した。
風もないのに、広大な湖の水面が不自然に大きく波立ち始めている。漆黒の水底で沈黙していた黄金の光が、目を射るほどの強さで再び明滅を開始したのだ。
ヒロトは空になったウイスキーグラスをテーブルに置き、燃え盛るかまどの火を背にして、静かに立ち上がった。




