第46話 美食フェス計画と静寂の抜け道
深淵の迷宮の最深部、湖畔のキャンプサイト。
世界中のSランク探索者たちを巻き込んで狂乱の一夜となった「第1回・深淵の美食フェス」の熱気はすでに去り、そこには嵐が過ぎ去った後のような静かな朝が訪れていた。
俺は石造りのかまどの前で、昨日の宴で使った大量の鉄板やダッチオーブンの油汚れを『極・生活魔法』の高圧水流で洗い流していた。
その背後には、各国のトップギルドから送りつけられ、フェスで消費しきれなかった規格外のレア食材の山がそびえ立っている。氷魔法で厳重にパックされた北海のアビス・サーモン、砂漠地帯から送られてきた幻影の香辛料が入った麻袋、アビス・マンモスの鼻肉のブロック。アイテムボックスに収納していく作業だけでも一苦労だ。
「……ん?」
ふと、スポンジを持つ手を止めた。
足元の地盤から、微かな振動が伝わってきたのだ。地震のような揺れではない。すぐ目の前にある広大な湖の、さらに奥深くの底から、何か巨大な質量が動いているような重く低い振動だ。
水際を見ると、風もないのに波紋が不自然な広がり方を見せている。昨日から気になっていたが、青白い発光苔の光すら届かない漆黒の水底に、ごくわずかに黄金色の光が瞬いているように見えた。
「おい、ハク。底に何かいるのか?」
俺が声をかけると、定位置で丸くなっていた豆柴サイズのハクが耳をピクッと動かし、短い足でトコトコと水際に近づいた。湖面をじっと見つめ、小さく「クゥン」と喉を鳴らす。
敵意や殺気を感じている様子はない。だが、神話の魔獣ですら理解しきれない未知の何かが、確実に水底で胎動している気配があった。
「皆様、ごきげんよう! 今日も素晴らしいダンジョン日和ですわね!」
湖の底の異変を確かめようとした俺の思考は、背後から響いた場違いなほど華やかな声によってかき消された。
振り返ると、日傘を優雅に差したクロエ・ド・ラ・ヴァリエールが、完璧にアイロンのかかったハイブランドのダンジョンウェア姿で歩み寄ってくるところだった。彼女の背後には、数名の精鋭私兵たちが重そうな測量機材を抱えて控えている。
「クロエ様、おはようございます。……その機材はなんのつもりですか?」
キャンピングチェアで死んだように眠っていた小島ハナが、ハッと目を覚ましてブルーライトカット眼鏡を掛け直した。彼女の顔には、昨日のフェスの事後処理と各国のギルド対応による激務の疲労が濃く刻まれている。
「あら、ハナ。顔色がよろしくありませんわよ? 機材は測量のためのものですわ。昨日の美食フェス、控えめに言って最高でしたの! ですからわたくし、決めましたわ」
クロエは日傘をパチンと閉じ、湖畔の平地を見渡して堂々と宣言した。
「この最深部のキャンプサイトを、わたくしの財力でSランク限定の『深淵の美食リゾート』として恒久的に整備いたしますわ! 世界中から極上の食材を集め、ヒロトには総料理長として永遠に腕を振るっていただきますの!」
「はあぁ!?」
ハナの悲鳴が最深部の空気を切り裂いた。
「しょ、正気ですか!? 昨日の突発的なフェスだけでもギルド本部の通信回線と私の胃壁が物理的に焼け焦げたというのに、常設!? しかもSランク限定の巨大キャンプ場なんて、防衛と管理をどうするつもりですか!」
「防衛など不要ですわ。ここにいる専属シェフとわたくしの私兵、そしてハクちゃんがいれば、並の魔物など寄り付きもしませんの。それに、入場料として各国のトップからレア食材を上納させれば、わたくしたちは常に未知の美食を味わえますわ」
クロエの瞳には、一切の躊躇がない。彼女は本気で、この人類未踏の絶対領域を自分のためのリゾート地へ作り変えるつもりらしい。
ハナが「ギルドの規約が……」と呻きながら胃薬の瓶を取り出す中、俺はため息をついてフライパンを拭いた。
「勝手に話を進めるな。……そもそも、世界中から肉や魚のメイン食材ばかりが大量に届いても、味付けのベースになる香草や、つけ合わせの野草が全く足りないんだ。昨日で岩塩のストックも心許なくなってきた。リゾート云々は置くとしても、まずは裏方の調達が先だ」
俺が現実的な問題を突きつけると、テントの影で丸くなっていた華奢な影が、音もなく立ち上がった。
ルーズなパーカーの袖を余らせた新井久美子が、とてとてと歩み寄り、俺のパーカーの裾を軽く引く。
「……ヒロト。上の階層に、アビス・ハーブの群生地がある。あと、純度の高い岩塩の洞窟も。私、場所知ってる」
「上の階層? 第50階層あたりか。今から歩いて戻るには時間がかかるぞ」
「大丈夫。……私が、連れて行くから」
久美子はそう言うと、俺の腕にギュッと抱きついた。
次の瞬間、彼女の身体から凄まじい密度の魔力が立ち昇り、周囲の光と音が完全に歪んだ。レンジャースキルの最上位『隠密』の応用、対象の気配と姿を環境に溶け込ませ、魔物すら感知できない最短ルートを駆け抜ける高度な移動術だ。
「ちょ、久美子! おじさんを抜け駆けして……!」
エミリアの声が遠のき、俺の視界は一瞬の浮遊感に包み込まれた。
★★★★★★★★★★★
「……着いた。ここ、第52階層の外れ」
気がつくと、俺たちは最深部の湖畔ではなく、淡く光る水晶が壁面を覆う、静かな地底湖のほとりに立っていた。
ひんやりとした空気が肌を撫で、水滴が落ちる微かな音だけが反響している。先ほどの喧騒が嘘のような、絶対的な静寂だ。
「お前のルート取り、本当に無駄がないな。どうやって数階層を一気にショートカットしたんだ」
「……うん。疲れるの、嫌いだから。最短距離の隠し通路、見つけてある」
久美子は小さく欠伸をしながら、水晶の洞窟の奥を指さした。
そこには、純白の岩塩の結晶が壁一面に張り付いている場所があり、足元にはミントやローズマリーに似た、爽やかな香りを放つアビス・ハーブが群生していた。
「なるほど、これなら十分な量が確保できそうだ」
俺はアイテムボックスからピッケルと麻袋を取り出し、手早く岩塩を砕き、ハーブの葉を傷つけないように摘み取っていく。
久美子は手伝うでもなく、手頃な平らな岩の上にごろんと横になり、パーカーのフードを被って俺の作業をぼんやりと眺めていた。
「……本当に、ただ案内しただけなんだな」
「……うん。私、食べるの専門だから」
30分ほどで必要な量の調達を終え、俺は久美子の寝転がっている岩のそばに腰を下ろした。
アイテムボックスから、保温ボトルに入れた温かいダージリンティーと、小さなタッパーを取り出す。
「ほら、お茶にするぞ」
タッパーの蓋を開けると、焦がしバターとアーモンドプードルの甘く香ばしい匂いが立ち昇った。
昨晩、かまどの余熱を使って焼いておいた手作りのフィナンシェだ。ダンジョンの素材を使わず、純粋に地上から持ち込んだエシレバターと上質な小麦粉だけで作った、素朴だがリッチな焼き菓子である。
寝転がっていた久美子が、匂いに釣られた猫のようにむくりと起き上がり、無言でフィナンシェを一つ手に取った。
小さな口を開け、サクッと角をかじる。
「……んっ」
表面のカリッとした食感の直後、中からしっとりとした生地がほどけ、濃厚なバターのコクとアーモンドの風味が口いっぱいに広がる。
久美子は目を細め、紅茶を一口飲んでふうっと息を吐いた。
「……美味しい。バター、すごく濃い。甘くて、サクサクしてる」
「最近、お前が一番よく動いて食材を運んでくれてるからな。少し糖分を多めにしておいた。疲労回復にはこれが一番だ」
俺が言うと、久美子はフィナンシェを両手で持ったまま、少しだけ俯いた。
「……私、元々は動くの嫌い。ベッドから一歩も出たくない」
「知ってるよ。いつ見ても寝てるからな」
「……でも」
久美子は身体を傾け、俺のパーカーの肩に、こつんと自分の頭を乗せてきた。
華奢な身体から、微かにシャンプーの香りと、ダンジョン特有の冷たい土の匂いが混ざって漂ってくる。
「ヒロトが、美味しいもの作ってくれるから。……ヒロトのご飯がないと、もう動けない体になったかも」
「そりゃ責任重大だな。食いっぱぐれないように、ずっと腕を磨いておかないと」
俺が苦笑しながら答えると、久美子はパーカーの袖を指先で軽くつまんだ。
「……リゾートとか、人がいっぱい来るの、面倒くさい。……ここ、静か。ヒロトの匂い、落ち着く」
彼女はそのまま目を閉じ、静かに規則正しい寝息を立て始めた。
遠くで水滴が落ちる音が響く。俺は彼女を起こさないよう、ゆっくりと残りの紅茶を飲み干し、しばらくの間、地底の冷たく澄んだ空気を感じていた。
★★★★★★★★★★★
1時間後。
再び久美子の『隠密』で最深部の湖畔に戻ると、キャンプサイトはすでに別世界へと変貌を遂げつつあった。
クロエの指示を受けた私兵たちが魔法を駆使して平地を整地し、いくつもの巨大な白いパビリオンテントを設営している。さらには、野外用の長テーブルや、魔力で炎を灯す篝火のスタンドまでが次々と配置されていた。
「……なんか、すごいことになってる」
久美子が目をこすりながら呟いた。
「お戻りになりましたのね、総料理長!」
日傘を差したクロエが、満面の笑みでこちらへ手を振ってくる。その後ろでは、ハナが完全に魂の抜けた顔で、ギルド本部との承認手続きの書類にサインをし続けていた。
「……どうやら、本気でやるつもりらしいな」
「……ヒロト、私の分は残しておいてね。テントで寝て待ってるから」
久美子は早々に俺の後ろへ隠れ、特等席のキャンピングチェアへと潜り込んだ。
積み上げられた世界最高峰のレア食材と、完成しつつある巨大なリゾート施設。
俺は小さくため息をつき、極厚の鉄板をかまどに乗せようとした。
――その時だった。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォ……ッ!!
湖の底から、朝感じたものとは比較にならないほど強烈な振動が響き渡った。
水面が不自然に大きく盛り上がり、巨大な泡が次々と弾ける。漆黒だった水底の奥深くから、強烈な黄金色の光が一直線に水面へと伸びてきた。
「な、何事ですの!?」
クロエが日傘を取り落とし、私兵たちが一斉に武器を構える。
エミリアもユジンも、瞬時に遊びの空気を捨てて臨戦態勢に入った。
フェス後の余韻とリゾート開発で浮き足立っていたキャンプサイトが、一瞬にして凍りつく。
俺たちは息を呑んで見つめた。
湖の中央、水面が大きく割れ、何か巨大な建造物の一部のようなものが、ゆっくりと浮上しようとしていた。




