第19話 超特大テントとセレブの合流
最深部の天井に自生する青白い発光苔が、星空のように周囲を静かに照らし出している。
湖から吹き抜ける夜風はひんやりと冷たいが、石造りのかまどで赤々と熾る炭火が、心地よい暖かさを保ってくれていた。
昼のうどん、そして午後の散策を経て、夕食は久美子が調達してきた謎のキノコや野草を軽く炙って済ませた。
日中の喧騒が嘘のように落ち着いた、大人の晩酌タイムの始まりだ。
俺はアイテムボックスから、一本の重厚なボトルを取り出した。
シングルモルトウイスキーの最高峰、『マッカラン』。長年、過酷な荷物持ちの仕事を終えた後に安アパートで一人傾けるのが、俺にとって唯一の贅沢だった酒だ。
クリスタルグラスに琥珀色の液体を注ぐ。
氷は入れない。ウイスキー二に対して、常温の浄水を一の割合で静かに加えるだけだ。アルコール度数がわずかに下がることで、閉じ込められていたシェリー樽特有の甘い香りと、ドライフルーツのような芳醇なアロマが一気に花開く。酒本来の骨格と香りを最も深く味わうための、個人的に完璧だと思っている比率だった。
女性陣には、ブルゴーニュ産の赤ワインを開けた。
美しいルビー色をしたピノ・ノワールをグラスに注ぐと、ラズベリーやダークチェリーを思わせる華やかな果実味が、焚き火の熱気でふわりと立ち昇る。
酒のつまみ、というよりは食後のデザートとして、プレーンヨーグルトにアイテムボックスで保存していた黄金色の蜂蜜をたっぷりと垂らしたものを小鉢で振る舞った。
「ん……このワイン、すごく香りが良いです。それに、蜂蜜の濃厚な甘さとヨーグルトの程よい酸味が、ピノ・ノワールの繊細な果実味と驚くほど見事なマリアージュを果たしているんですね」
エミリアがグラスの脚を指で回しながら、少し頬を赤らめて微笑む。
ユジンも無言で赤ワインを口に含み、ヨーグルトをスプーンですくっていた。激辛党の彼女だが、こういう繊細な酸味と甘味の組み合わせも悪くないといった落ち着いた表情をしている。口の中で転がすようにワインを味わうその横顔は、普段の刺々しさを少しだけ忘れさせていた。
籐子はワインを舐めながら、相変わらずマッカランの瓶に刻まれたラベルを光学機器で解析しようと試みている。久美子に至ってはワインには手を出さず、ハクの柔らかいお腹を最高のクッション代わりにしてヨーグルトを平らげ、すでにスースーと静かな寝息を立てていた。その図太さには感心するしかない。
豆柴サイズのハクは、酒には一切興味を示さず、俺が先ほど与えた干し肉を前足で押さえ込み、ガジガジと一心不乱に噛んでいる。
俺はウイスキーのグラスを傾けた。
舌に触れた瞬間の、ピリッとしたアルコールの刺激。その直後に押し寄せる、レーズンやバニラを思わせる濃厚な甘みと、スパイシーな余韻。鼻腔を抜ける樽の香りが、ダンジョンの冷たい空気に心地よく溶けていく。
静かで、贅沢な夜だ。
誰も急ぐ必要はない。ただ火を眺め、それぞれのペースで酒と甘味を味わう。
俺が二杯目のマッカランを作ろうとボトルの首に手をかけた、その瞬間。
上空の岩盤付近の空気が、水面に巨大な石を投げ込んだかのようにぐにゃりと歪んだ。
「……ッ」
エミリアが瞬時にワイングラスをテーブルに置き、傍らに立てかけていた『氷雪の魔剣』を引き寄せる。
ユジンも既に両手に短剣を握り、気配を殺して腰を落とし、上空を睨み据えた。
歪んだ空間から響いてきたのは、岩が砕けるような物理的な破壊音ではない。
「グォォォォォォ……ッ」という、深海から響くような、重く低い獣の咆哮だった。
空間そのものが縦に裂け、そこから莫大な魔力の奔流と共に、巨大な質量が最深部の空に滑り出てくる。まるで空間という布地を強引に引き裂いて現れたかのような、非現実的な光景だ。
星空のような発光苔の光を完全に遮るほどの巨体。
空を悠然と泳ぐ、巨大な鯨の幻獣『リヴァイアサン』だ。
リヴァイアサンは湖畔の平地の上空でピタリと静止すると、その広大な背中から、次々と黒い人影が飛び降りてきた。
彼らは魔法によるパラシュートのような滞空技術で、数十メートルの高さをふわりと滑らかに着地していく。全員が一糸乱れぬ動きを見せる、洗練された完全武装の部隊だった。
彼らは着地するなり、あっという間に周囲の安全を確保し、俺たちのキャンプサイトのすぐ横に、分厚い純白の絨毯を敷き始めた。
そして、リヴァイアサンの背から最後に舞い降りてきたのは、純白の毛並みを持つ二頭の霊獣を従えた、一人の女性だった。
ダークスキンの肌に映える、素人目に見てもとんでもない金額がかけられているであろう、特注の豪奢なダンジョンウェア。
彼女が赤い靴底のブーツで絨毯に降り立つと、武装した私兵たちが一斉に膝をついて傅いた。
俺はグラスを持ったまま、呆気に取られてその光景を眺めていた。
どこの国の王族か知らないが、こんな未踏破の最深部に軍隊規模の私兵と巨大な幻獣を引き連れて乗り込んでくるなど、正気の沙汰ではない。
彼女は優雅な足取りで俺たちのキャンプサイトへ近づいてくる。
警戒を解かないエミリアとユジンが前に出ようとするが、女性は彼女たちを一瞥もせず、真っ直ぐに俺の足元――干し肉をかじっている豆柴サイズのハクの前まで歩み寄った。
彼女はハクを見るなり、それまでのエレガントな仮面をかなぐり捨て、頬を激しく紅潮させてしゃがみ込んだ。
「ああっ……! 画面越しでも素晴らしかったですけれど、実物の毛並みはさらに……さらに完璧ですわ! この圧倒的なモフモフ感、神話級の魔力が織りなす究極の弾力……!」
ハクは干し肉を咥えたまま、不思議そうに首を傾げている。
彼女はハクを力強く抱きしめようと両手を伸ばしたが、ハクが少しだけ鬱陶しそうに身をよじったため、その手は虚しく空を切った。
女性は咳払いを一つして立ち上がり、身だしなみを整えると、今度は俺の顔を真っ直ぐに見た。
「あなたが、この子を餌付けているという探索者ですわね? わたくしはクロエ。アカウント名『マドモアゼル・C』と言えば分かりますかしら」
「マドモアゼル……ああ、昼間に一千万円のスパチャを投げてきた……」
「ええ。単刀直入に言いますわ。このワンちゃんとシェフは、わたくしが買いますわ!」
ドンッ、という重い音と共に、私兵の一人が大きなアタッシュケースをテーブルの上に置いた。
留め金が弾かれ、開かれた中身は、眩いばかりの金塊と、黒光りするブラックカードの束だった。
「わたくしの財力と、この子たちの力があれば、この殺風景な最深部すら、世界最高のグランピングリゾートに変えてみせますわ。……さあ、急いでわたくしの超特大テントを設営しなさい!」
クロエの号令と共に、私兵たちが凄まじい手際で動き始めた。
彼らはアイテムボックスから一斉に大量の資材を取り出し、俺のテントの十倍はあろうかという、城のように巨大で豪華なテントの組み立てを開始した。
魔法による補強と物理的な組み立てが同時進行で行われ、あっという間に外壁が張られていく。さらに、静音設計の巨大な魔導発電機、高級なアンティーク家具、ふかふかの特大ベッド、さらには照明用のクリスタルシャンデリアまでが、続々とテントの中へと運び込まれていく。
「はあ!? あんた馬鹿なの!? こんなモンスターだらけのダンジョンの最深部に、シャンデリア付きのリゾートテント建ててどうすんのよ!」
ユジンが短剣を構えたまま、理解不能な光景にキレ気味に突っ込みを入れる。
「あんな巨大な資材、全部アイテムボックスに入れて空間跳躍してきたんですか……?」
エミリアは目の前で組み上がっていく要塞のようなテントを見上げ、言葉を失っている。
「ちょっと待って、あのテントの骨組み、ミスリルとオリハルコンの合金!? 魔導発電機の出力波長も規格外ね……くっ、一部解体して調べたいわ!」
籐子に至っては、私兵の作業を食い入るように見つめながら、計測器を片手にヨダレを垂らさんばかりに興奮していた。
なお、久美子はこれだけの大騒音の中でも、ハクの腹を枕にしたままピクリとも動かず熟睡を続けている。
「これだけの資材と人員を、空間跳躍で一気に運び込むなんて……どれだけの魔力と資金を注ぎ込んでいるんですか……」
エミリアの呆れたような呟きを耳ざとく拾ったのか、クロエは余裕の笑みを浮かべて豪華な扇子を広げた。
「わたくしたちのグループの資金力と技術力を以てすれば、不可能などありませんわ。ギルドからのクレームも、顧問弁護士に対応させて事後承諾させれば済むことですし」
彼女の常識外れな宣言を聞きながら、俺は何も言わずに手元のグラスを口に運んだ。
氷の入っていない、トワイスアップのマッカラン。
アルコール度数を下げたことで際立つ濃厚なウイスキーの甘みが、喉の奥を心地よく焼いていく。
俺は目の前で輝き始めたシャンデリアの眩しい光から目を逸らし、ただ黙々と、極上の琥珀色の液体を煽り続けた。




