第17話 カオス化するキャンプと運営の嘆き
「ノルウェー大使館からの問い合わせ、一旦保留に回して! 韓国ギルド本部からの抗議は、外務省の探索者特務局へ回してちょうだい! 私は今から魔導工学連盟の理事長に直接状況を説明するわ!」
東京都心、探索者ギルド日本本部の地下三階「配信管理センター」。
時刻は午後一時のピークタイムを回ったところだが、チーフアナリストの小島・シャルロット・ハナのデスク周辺は、戦場のような喧騒に包まれていた。
壁面に設置された巨大なメインモニターには、現在国内で最も多くのトラフィックを吸い上げている『名無し_キャンプ配信_テスト』の映像が常時投影されている。
ハナは三台の通話端末を同時に捌きながら、モニターの映像を恨めしそうに睨みつけた。
画面の中では、前人未到の危険地帯であるはずの深淵の迷宮最深部で、長髪のFランク探索者が大きな鍋に湯を沸かしている。
そして、彼が作った木製のテーブルを囲んで昼飯を待っているのは、常軌を逸した顔ぶれだった。
各国のSランクやAランクのトップ探索者たちが、あろうことか全員揃って、泥だらけの軽装鎧や白衣、ルーズなパーカー姿で、大人しく自分の皿を持って配給を待っているのだ。
さらに彼女たちの足元では、豆柴のサイズに縮んだ神級魔獣フェンリルが仰向けになって無防備に腹を晒し、気持ちよさそうに短い尻尾を振っている。
「どうして人類未踏の絶対領域が、あのおっさんの手料理を目当てにしたピクニックの場所取り合戦みたいになってるのよ……」
ハナは通話を終え、受話器をデスクに置くと同時に限界を迎えたように深くため息をついた。
各国のトップ探索者たちが、ギルドの正規ルートを通さずに次々と深淵の迷宮最深部へ不法侵入を果たしている。しかも目的はダンジョン攻略ではなく、「ただのFランクのおっさんの手料理を食べるため」である。
世界中のギルドや政府機関がパニックに陥り、「日本が極秘裏に強力なテイマーを育成し、世界のトップ探索者を洗脳しているのではないか」という陰謀論まで飛び交う始末だった。
「小島チーフ。本部長から、十五時からの国際合同オンライン会議に出席するよう指示がありました」
「……わかったわ。資料の準備は移動中にやる」
ハナは外したブルーライトカット眼鏡をデスクに放り投げ、眉間を指で強く押さえた。
連日の徹夜とプレッシャー、そして何より、画面越しに叩きつけられる極上の飯テロの数々により、彼女の胃袋と精神はすでに悲鳴を上げている。
「私、一時間だけ休憩をもらうわ。何かあったら副チーフに判断を仰いで」
「はい、お疲れ様です!」
ハナはふらつく足取りでセンターを後にした。
まずは、まともな食事を胃に入れなければならない。これ以上、コンビニのパサパサしたサンドイッチや人工的な味の栄養ゼリーで誤魔化し続ければ、間違いなく過労で倒れる。
ギルド本部のエントランスからタクシーに乗り込み、新宿三丁目へと向かった。
目的地は、新宿伊勢丹のレストランフロア。
普段の激務明けなら手っ取り早く高カロリーなジャンクフードに逃げるところだが、今朝の配信でヒロトが作っていた「幻のキノコのリゾット」や、それ以前の「鮭とイクラの親子丼」の圧倒的なクオリティが、彼女の無意識下に強く刷り込まれていた。
荒みきった神経を落ち着かせるには、静かで上質な空間と、確かな技術で作られた本物の料理が必要だ。
落ち着いた店構えの老舗蕎麦店へ暖簾をくぐる。
白木を基調とした静かな店内は、地下の管理センターの喧騒が嘘のように穏やかな時間が流れていた。案内されたテーブル席につき、ハナは迷うことなくメニューを開いた。
「天せいろの特上をお願いします。あと、蕎麦は二枚で」
冷たいお茶を飲み、深く息を吐く。
十分ほど待ったところで、注文の品が静かに運ばれてきた。
朱塗りのせいろに盛られた、艶やかな二八蕎麦。職人の手によって細く均一に切り揃えられた麺が、瑞々しい輝きを放っている。
そして、その横に添えられた大ぶりの揚げたての天ぷらたち。特大の車海老が二本、肉厚の椎茸、獅子唐、そしてホクホクとした南瓜。薄く繊細な衣が、食材の鮮やかな色を透かして見せている。
「いただきます」
ハナは箸を取り、まずは蕎麦を数本つまんで、つゆにつけずにそのまま口へ運んだ。
冷たい水でキリッと締められた麺の確かなコシ。噛み締めるほどに、ふわりと鼻を抜ける蕎麦粉の野趣あふれる香りと、微かな甘み。
次に、本枯節と上質な昆布で取られた濃いめのつゆに、ネギと本ワサビを少しだけ落とす。
蕎麦の先を三分の一ほどつゆに浸し、一気にすする。
ズルッ、という小気味良い音。
鰹出汁の深い旨味と、キリッとした醤油の返しが、蕎麦の風味を何倍にも引き立てる。ワサビのツンとした辛味が心地よい刺激となり、淀んでいた頭がスッキリと晴れていく感覚があった。
「……美味しい」
ハナの口から、心からの安堵の声が漏れた。
続いて、メインの車海老の天ぷらに箸を伸ばす。
粗塩をほんの少しだけつけ、サクッと音を立ててかじりつく。
薄く軽い衣の心地よい歯触りの直後、中からプリッとした弾力のある海老の身が現れた。高温の油で瞬時に閉じ込められた海老の甘みと旨味が、口の中でじんわりと広がる。
「油っこさなんて全然ない……疲れた胃袋でも、これならいくらでも食べられそう……」
ハナは誰に聞かせるでもなく独りごちた。
椎茸の天ぷらは、噛むと驚くほどジューシーなキノコの出汁が溢れ出し、獅子唐のほろ苦さが良い口直しになる。
蕎麦をつゆで流し込み、天ぷらをサクサクと味わう。静かな店内で、ハナはただひたすらに自分の胃袋と向き合い、至福の時間を噛み締めていた。
二枚目のせいろを半分ほど食べ終え、温かい蕎麦湯でつゆを割ってほっと一息ついた時。
ハナはふと、無意識の手癖でスマートフォンの画面をタップし、D-Tubeのアプリを開いてしまった。
「あ……」
画面の中では、まさにヒロトのキャンプサイトで昼食の調理が佳境に入っていた。
彼が作っているのは、久美子が調達してきたばかりの山菜を使った和風ペペロンチーノだ。
フライパンの中で、多めのエキストラバージンオリーブオイルとたっぷりの刻みニンニク、鷹の爪が弱火で熱せられている。ニンニクが色づき始めた絶好のタイミングで、行者ニンニクに似た野草と、厚切りの燻製ベーコンが放り込まれた。
オイルの中でベーコンの脂がチリチリと爆ぜ、行者ニンニク特有の強烈な香味が周囲に弾け飛ぶ。
そして、絶妙なアルデンテに茹で上げられたパスタが投入された。
ヒロトが生活魔法の干渉領域を展開し、フライパンをリズミカルに煽る。
パスタの茹で汁とオイルが瞬時に乳化し、とろみのある白濁した濃厚なソースへと変化して麺の表面に隙間なく絡みついていく。
スマートフォンのスピーカーから漏れ聞こえるパスタを混ぜる水気を含んだ音と、画面の向こうでオイルがジュワッと跳ねる映像だけで、ハナの口の中に暴力的な量の唾液が溢れ出した。
『乳化のスピードおかしいだろ!』
『山菜と厚切りベーコンのペペロンチーノとか絶対美味いやつ』
『おっさんのパスタさばき、イタリアのマンマも泣いて喜ぶレベル』
画面の中では、出来上がった山盛りのパスタが四人の美女たちに振る舞われていた。
エミリアはパスタをくるくるとフォークに巻きつけ、大口を開けて頬張ると「んん〜っ!」と分かりやすく身悶えしている。
ユジンは「辛さが全然足りないわ」と強がりつつも、ベーコンとニンニクの旨味に釣られて、無意識のうちに空になったお代わりの皿を差し出している。
籐子はソースの完璧な乳化状態をブツブツと小声で分析しながらも、食べる手は全く止まっていない。
久美子は自分の採ってきた山菜が極上のパスタに化けたことに感動したのか、目を細めて無言で皿を舐めるように平らげていた。
そして豆柴サイズのハクも、ニンニクの刺激や塩気など全く意に介さない神獣の強靭な胃袋で、特製の山菜ベーコンパスタを木桶から豪快に吸い込んでいる。
「…………」
ハナは、自分の手元にある空になったせいろと、蕎麦湯の入った器を見下ろした。
さっきまで、あんなに満ち足りていたはずの胃袋が。
老舗の極上の天せいろを二枚も平らげて、心も体も満足していたはずなのに。
あの、ニンニクとオイルのテカテカと光るパスタを見た瞬間。
彼女の腹の底で、鎮まっていたはずの野獣が再び目を覚まし、低く唸り声を上げた。
「……すいません」
ハナは震える声で、通りかかった店員を呼び止めた。
「追加で、海老天丼を一つ。ご飯少なめで……いえ、普通盛りでお願いします」




