第16話 幻の食材と眠り姫
静かな最深部の朝。はるか上空の分厚い岩盤の天井に張り巡らされた疑似太陽がゆっくりと明るさを増し、足元に自生する青白い発光苔の光と交じり合う穏やかな時間帯だ。
俺はいつものように早く目を覚まし、テントのジッパーを下ろして外へ這い出した。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、湿った土と緑の爽やかな香りが肺を満たしていく。
キャンプサイトは静まり返っている。エミリア、籐子、ユジンの三人は、それぞれ俺がアイテムボックスから出して割り当てたテントの中で、まだ深い眠りについているようだ。激しい戦いや長旅の疲れを癒やすには、静かな環境と十分な睡眠が不可欠である。
ふと、足元で「クンッ」という小さな鳴き声がした。
視線を落とすと、豆柴の子犬サイズになったハクが、短い尻尾をパタパタと振りながら俺の靴紐にじゃれついていた。
昨日のヤンニョムチキン騒動の際、殺気を放つユジンを警戒させないために縮んだ姿だが、どうやらハク自身がこのコンパクトなフォルムをすっかり気に入ってしまったらしい。高層ビルほどもある神獣の姿に戻る気配は全くなく、完全に愛玩犬としてくつろいでいる。
「おはよう、ハク。今日もそのサイズで行くのか」
しゃがみ込んで頭を撫でてやると、ハクは気持ちよさそうに目を細め、俺の手のひらを小さな舌でペロペロと舐めた。人類の脅威と恐れられる魔獣の欠片もないその姿に、俺は思わず口元を緩めた。
朝食の準備に取り掛かろうとして、視界の端に違和感を覚えた。
石造りのかまどのすぐ横、予備の薪を積んであるスペースの影に、不自然なふくらみがあるのだ。
警戒しながら近づいてみると、灰色のルーズなパーカーに身を包んだ小柄な女性が、冷たい地面に丸くなって倒れていた。色素の薄いアッシュブロンドの髪には土や枯れ葉が絡みつき、機能性重視のダンジョンウェアのあちこちに、魔物との激しい戦闘の痕跡と見られる擦り切れや泥の跡がついている。
「おい、大丈夫か」
俺が声をかけながら彼女の肩を軽く揺すろうとすると、女性は気怠げにうっすらと目を開けた。焦点の定まらない、ドーリーでアンニュイな瞳だ。
彼女は俺の顔をぼんやりと見上げると、懐から大きな麻袋を取り出し、ドンッと俺の前に突き出した。
「……これ、美味しくして」
「は?」
「私、もう限界。寝る……」
彼女はかすれた声でそれだけを言い残すと、俺が止める間もなく、ちょうど空きになっていた予備のテントにズリズリと這うようにして潜り込み、数秒後にはスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
「……またとんでもないのが来たな」
俺は呆れながら、彼女が押し付けてきた麻袋の口を開いた。
中身を確認した瞬間、俺の思考が数秒間停止した。
そこには、夜空のように深い漆黒に星屑のような金色の斑点を持つ『アビス・トリュフ』。そして、七色に淡く発光する『虹色シメジ』が無造作にゴロゴロと詰め込まれていた。
どちらも、探索者の間で「見つかれば一個で一生遊んで暮らせる」と噂される、ダンジョン深層の幻の高級食材である。
「これを一人で採ってきたのか……?」
一体どうやって、このモンスターの巣窟である最深部まで、こんな無傷の状態で幻の食材を運んできたのか。エミリアのような力技で突破してきたとは思えない華奢な体格だ。謎は尽きないが、目の前にこれほど極上のキノコがあるのに、料理人として腕を振るわない手はない。
俺は朝食のメニューを急遽変更し、この幻のキノコを使った濃厚なクリームリゾットを作ることに決めた。
かまどに火を入れ、厚手のフライパンにエキストラバージンオリーブオイルと、包丁の腹で潰したニンニクを入れて弱火にかける。『極・生活魔法』で温度を微調整し、ニンニクの香りが油にじっくりと移ったところで、厚切りにカットしたパンチェッタを投入した。
ジューッという音と共に、良質な豚の脂が溶け出していく。
そこに、土を丁寧に払い落として厚めにスライスした虹色シメジを加える。強火で一気に炒めると、キノコの細胞が壊れて水分と極上の旨味が溢れ出し、パンチェッタの塩気と混ざり合ってたまらない香りを放ち始めた。
「よし、米を入れるぞ」
洗わずにそのままの生米をフライパンへ投入する。米粒が透き通るまで油と旨味をコーティングするように炒め、白ワインを注いでアルコールを一気に飛ばす。
ここからは時間との勝負だ。隣の鍋で熱しておいた鶏と香味野菜のブイヨンスープを、お玉一杯ずつフライパンに注いでいく。米がスープを吸い込んだら、また一杯追加する。これを繰り返し、米の芯にわずかな硬さが残るアルデンテの状態を目指す。
鍋の中の水分が減り、米から出たでんぷん質が全体にクリーミーなとろみをもたらしてきた。
火を止め、たっぷりのパルミジャーノ・レッジャーノチーズと、冷たい無塩バターの塊を加える。
フライパンを素早く振り、空気を含ませるようにかき混ぜて乳化させる。全体のツヤが増し、トロリとした完璧なリゾットの質感が仕上がった。
皿にこんもりと盛り付けた後、仕上げとしてアビス・トリュフを専用のグレーターで薄く削りかける。
黒いトリュフの欠片が熱々のリゾットの上に乗った瞬間、森の奥深くを思わせる芳醇で官能的な香りが爆発的に広がり、最深部の澄んだ空気を一気に極上のレストランのような薫りで満たした。
「ハクの分は、こっちだな」
俺は塩気を極力抑え、キノコと細かく刻んだ鶏肉の出汁スープで柔らかく煮込んだ、ハク専用の特製スープご飯を小さな木製の器に用意した。
豆柴サイズのハクの前に置くと、ハクは「キュンッ!」と喜びに満ちた高い声を上げ、短い足を踏ん張りながら小さな器に顔を突っ込んだ。
ペチャ、ペチャ、ハフッ、ハフッ。
神獣とは思えない愛らしい音を立てて、一心不乱にご飯を食べている。口の周りをスープだらけにし、丸まった短い尻尾をプルプルと小刻みに振るその後ろ姿は、ただひたすらに尊い。
テントから起きてきた三人は、その光景を目の当たりにして完全に釘付けになっていた。
「神獣なのに……可愛すぎます……っ」
エミリアは両手で顔を覆いながら身悶えしている。
「ちょっと、これ反則じゃない……」
ユジンは真顔のまま、無意識の早業で通信端末のシャッターを連打していた。
「質量の縮小に伴う外見の幼体化……これも生存戦略としての何らかの防衛本能……?」
籐子はブツブツと早口で考察を呟きながら、ちゃっかりと動画を回している。
「お前ら、撮ってないで早く食え。リゾットは熱いうちが命だぞ」
俺が声をかけると、三人は我に返って慌ててテーブルの席につき、スプーンを手にした。
だが、彼女たちが一口目を運ぶよりも早く、予備のテントのジッパーが勢いよく開いた。
「……匂い、やばい」
先ほどまで泥のように眠っていたアッシュブロンドの女性が、フラフラとした足取りでテーブルに近づき、空いていた席にドサリと座り込んだ。
彼女の視線は、皿の上のトリュフリゾットに完全にロックオンされている。
「おっ、起きたか。お前が採ってきたキノコで作ったリゾットだ。熱いから気をつけろよ」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女はスプーンを掴み、山盛りのリゾットをすくって口の中へ放り込んだ。
その瞬間。
気怠げだった彼女の動きが、彫像のようにピタリと静止した。
スプーンを持った手が微かに震え、トロンとしていた瞳の焦点が、驚きで真っ直ぐに俺の顔を捉える。
アビス・トリュフの官能的な香りが鼻腔を抜け、虹色シメジから溢れ出した濃厚な旨味が、チーズとバターのコクと絡み合って舌の上を蹂躙する。米の中心に残るわずかなアルデンテの食感と、パンチェッタの塩気が、そのすべてを完璧にまとめ上げている。
彼女は言葉を全く発しないまま、二口、三口と、異常なスピードでリゾットを胃袋へと流し込み始めた。
熱さを気にする様子もなく、まるで砂漠で何日も水にありつけなかった遭難者のように、無心で皿に向かっている。
彼女の目元には、じんわりと涙が滲んでいた。
これまで、彼女はダンジョンで手に入れた希少な食材を、ただ適当に焼いたり茹でたりして、味も分からずに無理やり飲み込んできたのだろう。自分が命がけで手に入れた最高の素材が、人の手と技術によってこれほどまでに美味しく昇華されるという事実が、彼女の感情の許容量を超えさせたのだ。
「……私、今まで炭を食べてたのかも」
皿を綺麗に舐め回すように完食した後、彼女は深く息を吐き出し、かすれた声でポツリと呟いた。
その表情には、これまでの無気力さが嘘のような、深い安堵と幸福感が満ちている。
ふと横の画面に目をやると、早朝にもかかわらずコメントが凄まじい勢いで流れていた。
『おっさん、今度は誰を拾ったんだよ!』
『あのパーカーと雰囲気……Aランクの新井久美子か!?』
『なんでトップクラスのレンジャーが最深部にいるんだよ!』
『そんなことより、ハクちゃんが豆柴サイズになってるううう! 尊い!』
『トリュフ削った瞬間の匂い、画面越しでも強烈なのが伝わってくるわ』
視聴者たちの混乱をよそに、彼女は俺に向かってペコリと頭を下げた。
「ごちそうさまでした。私、新井久美子。Aランクのレンジャー」
「俺は山本博人だ。ヒロトでいい」
「ヒロト。……ここ、天国。私、もう地上には帰らない。ここで暮らす」
久美子は真剣な顔で俺を見つめ、はっきりと断言した。
「いや、ちょっと待て。ここは最深部だぞ。Aランクなら地上でいくらでも美味いものが食えるだろ。それに食材集めなら、エミリアも手伝ってくれてるしな」
俺がやんわりと諭そうとすると、久美子は首を横に振った。
「ヒロトのご飯じゃないと意味がない。私、気配消すの得意だから。エミリアが力ずくで倒せないようなヤバい魔物の巣でも、お宝の食材だけサッと盗んでこれる。ヒロトが欲しいもの、全部見つけてくる。だから……ご飯、食べさせて」
彼女は静かだが絶対に譲らないという瞳で訴えると、コロンと俺の足元に転がり、口の周りを拭き終わった豆柴サイズのハクの横で丸くなった。ハクも彼女を受け入れたのか、小さな舌で久美子の頬をペロリと舐めている。
どうやら、俺のキャンプの食材調達部門に、超危険地帯専門の優秀なシーフが加わってしまったらしい。
俺は苦笑いを浮かべながら、空になった食器を片付けるために立ち上がった。




