第11話 ポンコツ戦乙女の到着
甘酢照り焼き団子定食という満ち足りた夕食を終え、キャンピングチェアで静かにゴーヤー茶を味わっていた時のことだった。
発光苔が青白く輝く最深部の天井――はるか上空の分厚い岩盤から、突如としてメキメキと嫌な亀裂音が響き渡った。
「ん?」
俺がマグカップから口を離して見上げると、物理的な破壊ではなく、極低温の魔力によって分厚い岩盤が内側から強制的に凍結させられていた。次の瞬間、凄まじい轟音と共に数百トンはあろうかという岩の塊が爆砕し、四方八方へと散らばっていく。
パラパラと降り注ぐ細かい氷の破片と土埃に混じって、一つの小さな影が真っ逆さまに落下してくる。
影は空中で体勢を立て直すと、進行方向に向けて強烈な吹雪を放ち、何重にも展開された氷の障壁をクッション代わりにしつつ、落下の衝撃を殺しながら俺のキャンプサイトから数十メートル離れた湖畔の平地に着地した。いや、着地というよりは、氷の塊ごと地面に激突したような荒々しい墜落だった。
「……何事だ?」
足元で丸くなっていたハクが耳をピクッと動かしたが、立ち上がって警戒する素振りは見せない。敵意や殺気を感じていない証拠だ。
土埃が晴れたそこには、青と白を基調とした軽装鎧を纏った一人の女性が、長い剣を杖代わりにして膝をついていた。
見事な金糸の髪は煤と泥で酷く汚れ、防刃インナーは所々が破れて痛々しい擦り傷が覗いている。これだけ見れば、ダンジョンの深層で死闘を繰り広げた歴戦の探索者にしか見えない。
だが、彼女の行動は俺の予想を完全に裏切った。
「あ……あぁ……っ」
彼女はフラフラと立ち上がると、俺の顔を見るなり、まるで砂漠でオアシスを見つけた遭難者のような顔をして、文字通り這いずるように近づいてきたのだ。
そして、俺の数歩手前で力尽きたように倒れ込み、泥だらけの手を震わせながら前に伸ばした。
「……あの、カレーを……」
「は?」
「昨日の夜の、スパイスの粒子が溶け込んだ……赤い油の浮く、チキンカレーを……一口、食べさせて、ください……」
彼女は蚊の鳴くような、しかし尋常ではない執念の籠もった声でそれだけを絞り出し、パタンと気を失ったように突っ伏した。
「……空から岩盤ぶち抜いて降ってきて、第一声がそれか?」
俺は呆れて天を仰いだ。
どうやらこの金髪の姉ちゃんは、俺が昨日の夜にやっていた配信を見て、ただカレーを食うためだけにこの未踏の最深部まで道なき道をこじ開けてやってきたらしい。凄まじい執念だが、ベクトルが完全に間違っている。
「まあ、行き倒れを放っておくわけにもいかないな」
俺は立ち上がり、とりあえず彼女を抱え上げて火のそばの予備のチェアに座らせた。驚くほど体が軽く、鎧の下から微かに鳴る腹の虫の音が、彼女の限界状態を物語っていた。
俺はアイテムボックスを展開し、昨日の夜に作って多めに保存しておいたスパイスカレーの鍋を取り出した。アイテムボックスの中は時間経過がないため、一日経った今でも作りたての熱々と香りがそのまま保存されている。
だが、ただ出すだけではつまらない。俺は別の小鍋を取り出し、カレーのルーを移した。火にかけて温め直すと、クミンとコリアンダーの重厚な香りが再び目を覚まし、テントの周囲を包み込んでいく。
「腹ペコの胃袋に、いきなりスパイスの塊は刺激が強すぎるからな」
『極・生活魔法』で火加減を微調整しながら、濃厚な鶏のブイヨンと少量のココナッツミルクを加えてルーを優しく伸ばしていく。強烈なスパイスの尖ったエッジをココナッツの油分で少しだけ丸く包み込み、胃の粘膜に染み渡りやすいマイルドでコクのある仕上がりに調整するのだ。
別の鍋でバスマティライスを湯取り法でサッと温め直し、深い木皿にふんわりと盛り付ける。そこに、ココナッツの甘い香りが加わって鮮やかな琥珀色に変わった熱々のチキンカレーをたっぷりとかけた。
カレーの強烈な香りが漂った瞬間、気絶していたはずの彼女がガバッと目を見開いた。
サファイアのような碧眼が、俺の手に持つ木皿に完全にロックオンされている。
「ほら、熱いから気をつけて食え」
俺がスプーンを添えて木皿を渡すと、彼女は「いただきますっ!」と早口で叫び、なりふり構わずカレーに食らいついた。
「んんっ……! はふっ、ふぁぁ……っ!」
一口食べた瞬間、彼女の瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。
カルダモンやクミンといったスパイスの重層的な風味が舌の上で爆発し、丁寧に煮込まれた鶏肉の旨味とココナッツミルクのまろやかさが、極限の空腹状態にある細胞の一つ一つに急速に染み渡っていくのだろう。
彼女は泣きながら、それでいて蕩けるような恍惚とした表情を浮かべ、ものすごい速度でスプーンを動かし続けた。
金属のスプーンが木皿に当たるカチャカチャという音が、静かな最深部に響き続ける。泥だらけの顔をカレーのルーでさらに汚し、パラパラのバスマティライスをこぼれんばかりに頬張るその姿には、凄腕の探索者としての威厳など欠片もなかった。
「お前、本当にカレー食うためだけにこんな所まで来たのか。死ぬ一歩手前だったぞ」
「だって……我慢、できなかったんです……っ。あんなの、深夜に見せられたら……!」
彼女は咀嚼の手を休めることなく、涙目で訴えてくる。
俺は苦笑しつつ、食道に詰まらせないように冷たい水を入れたコップを横に置いてやった。傍らでは、カレーの匂いに反応したハクが「俺の分はないのか」と鼻を鳴らしている。
結局、彼女は俺が用意した大盛りカレーをあっという間に完食し、皿の底までスプーンで綺麗に削り取ってから、ようやく満足げに深々と息を吐いた。
「はぁぁ……生きててよかった……」
「そりゃ何よりだ。で、姉ちゃん、名前は?」
「エミリアです。エミリア・ラルセン……ふふっ、美味しい……」
まだスパイスの余韻に浸っているのか、エミリアと名乗った彼女は、だらしなく頬を緩めて笑っている。
「よし、エミリア。食後の口直しに何か飲むか? コーヒーか、紅茶か」
「あ、じゃあ……紅茶でお願いします」
俺はケトルで湯を沸かし、アールグレイの茶葉に少量のカルダモンとシナモンスティック、潰したクローブを加えて手鍋で煮出す。しっかりと茶葉が開き、スパイスの香りが抽出されたところでたっぷりのミルクを加え、沸騰する直前で火から下ろす。濃いめのミルクティー――本格的なチャイの完成だ。カレーの後はこれに限る。
温かいマグカップを渡すと、彼女は両手でそれを包み込み、ゆっくりと一口飲んだ。
「……んっ、スパイスの香りがして、すごくホッとします」
「だろ? 腹の底から温まる」
俺も自分用のコーヒーを淹れ、キャンピングチェアに深く腰掛けた。
天井の発光苔が降り注ぐ淡い青光りと、パチパチと爆ぜる焚き火の暖かな赤い光。
エミリアはチャイの入ったマグカップを両手で大切そうに持ちながら、火の粉が夜の闇へと舞い上がって消えていくのを、うっとりとした目で見つめている。
足元のハクは、食後の満腹感で完全にリラックスしきっており、エミリアの足に頭をすり寄せて撫でることを要求していた。エミリアも巨大な魔獣に怯えることなく、片手でハクの耳の裏の柔らかい毛並みを優しく掻いている。
「……こんなおっさんと焚き火囲んでお茶飲んでても、面白くないだろ。しかもお前、さっきから泥だらけだぞ」
俺が苦笑いしながら言うと、エミリアは首を横に振った。
「いえ、最高です。おじさんの作ったご飯を食べられて、こんなに可愛いワンちゃんをモフモフできて……これ以上の贅沢なんてありません」
エミリアはマグカップを持ったまま、心の底から満たされたような蕩けた笑顔を向けた。
その飾らない素直な反応に、俺は思わず小さく吹き出してしまった。
「そりゃどうも。まあ、帰る道がどうなってるかは知らんが、今夜はゆっくり休んでいくといい。テントのスペースならいくらでも作れる」
俺がそう言ってコーヒーをすすると、岩の上に立てかけた配信端末の画面が、かつてないほどの勢いで白く埋め尽くされているのが視界の端に映った。
『おい嘘だろ、俺たちの氷の戦乙女様が最深部でグランピングデートしてるぞ!?』
『おっさん! その娘Sランクだぞ! なんで近所の迷子みたいな扱いしてんだよ!』
『エミリアちゃんがあんな蕩けた顔すんの初めて見た……』
『カレー作ってハクちゃんモフらせてチャイ淹れてくれるおっさん、包容力カンストしてて男の俺でも惚れるわ』
『もうこのチャンネル、ダンジョン攻略じゃなくて深夜の恋愛リアリティショーだろ』
どうやら彼女の正体を巡ってコメント欄が凄まじいことになっているようだが、俺にとって彼女がSランクだろうが何だろうが関係ない。ただの、俺の飯を美味そうに食ってくれた腹ペコの客人だ。
「明日の朝ごはんは、厚切りのベーコンがあるから……ホットサンドにするか」
俺が独り言のように呟くと、エミリアはビクッと肩を震わせ、碧眼をキラキラと輝かせて俺の方へ身を乗り出してきた。
「ホッ、ホットサンド……! チーズは! チーズはたっぷり入れてもらえますか!?」
「ああ、もちろん。外側はカリカリに焼いてやるよ」
俺の答えに、エミリアは「やったぁ……!」と小さなガッツポーズを作り、ハクの白い毛並みに顔を埋めて喜びを爆発させた。




