第6話 国宝の価値、元罪人の価値
「国宝級です。この修復技術は、王国の至宝と言って過言ではない」
学術委員会の委員長が、修復済みの古文書を掲げながらそう宣言した。
王宮に来て十日あまり。封印区画の魔法契約書と並行して修復を進めていた古文書群が、正式な学術評価を受ける日が来た。
評価室には五人の委員と、立会人としてヴォルフ。私は隅に立って、自分の仕事が他人の手で評価されるのをぼんやりと眺めていた。
「繊維の方向に沿った補修紙の当て方、インクの色合わせ、綴じ糸の復元──いずれも現存する王都の修復技術を凌駕しています。三百年前の原本をここまで蘇らせるとは」
(……ありがたいけど、ただ丁寧にやっただけなんだけどな)
ただの仕事だ。目の前の本が壊れているから直す。それだけのことを五年間繰り返してきた。国宝級と言われても、正直ぴんとこない。
「修復者の名前は?」
「リーゼロッテ・ブレンターノ嬢です」
委員たちの顔が一斉にこちらを向いた。
──そして、固まった。
ブレンターノ。五年前に断罪された元伯爵令嬢の名前。この王宮で、その名を知らない人間はいない。
沈黙。
「……元ブレンターノ伯爵令嬢の」
「現在は宮廷魔導師局が国家事業として招聘した修復専門家です」
ヴォルフが口を挟んだ。淡々と、事実だけを。
「評価は技術に対して行われるものであり、修復者の経歴は評価基準に含まれません。学術委員会の規定第十二条」
また条文だ。この人は本当に、いつ王宮の規則を全部暗記したのだろう。
(……いえ、多分この人は最初から全部知っていて、必要な時に必要な条文を出しているだけなのよね。棚から本を取るみたいに)
委員長が咳払いをして、改めて宣言した。
「評価は技術に基づいて行われます。改めて──国宝級認定。修復者リーゼロッテ・ブレンターノ嬢の名は、学術委員会の認定記録に残されます」
国宝級。
私の名前で。
何か感じるかと思ったけれど、不思議と胸は静かだった。嬉しいとか誇らしいとかではなく、ただ──ああ、五年間やってきたことは間違いではなかったんだな、という安堵。
◇
夕刻。祝宴が開かれた。
大広間に貴族や王宮関係者が集まり、修復古文書がガラス棚に展示されている。私は壁際に立って、できるだけ目立たないようにしていた。
(社交の場は苦手だ。元伯爵令嬢とは思えないけれど、五年もただの司書をやっていれば仕方ない)
グラスに口をつける。辺境では飲めない上等な白ワインだ。味は分かるが、楽しむ余裕はない。
──足音が近づいてきた。
聞き覚えのある靴音。革底の、手入れの行き届いた音。五年前、この靴音が聞こえるたびに胸が高鳴っていた。
「久しぶりだな、リーゼロッテ」
エーリヒ殿下。
第二王子。元婚約者。
振り返った。
金の髪に青い瞳。端正な顔立ち。王族の礼装に身を包んだその姿は、五年前と変わらない──いや、少し頬が削げたかもしれない。
「……お久しぶりでございます、殿下」
「堅苦しいな。昔はエーリヒと呼んでいただろう」
(昔は、ね。その昔のあなたが、私を罪人として王宮から追い出したのだけれど)
口には出さない。代わりに、形だけの微笑みを返した。
「ブレンターノ家の復権を考えないか」
唐突だった。
社交辞令の一つも挟まず、いきなり本題に入ってくる。
「国宝級の修復技術が認められた今なら、爵位の復権を申請する正当な理由になる。私が後押しすれば──」
「お気持ちだけ頂戴いたします」
遮った。丁寧に、けれど明確に。
「私はただの司書ですので。爵位の復権には興味がありません」
エーリヒ殿下の表情が、一瞬だけ揺れた。予想外の返答だったらしい。
(……五年前に捨てたものの価値に、今更気づいたの? 遅いわよ。何もかも、五年遅い)
「考え直す気は」
「ございません」
二度目は、もっとはっきり言えた。自分でも驚くほどすっきりした声だった。
エーリヒ殿下が口を開きかけた──その瞬間、横から影が差した。
ヴォルフだった。
いつの間にか、私とエーリヒ殿下の間に立っている。正確には、私の正面に。殿下に対して斜めに肩を向け、私を背中で遮る位置。
「宮廷魔導師殿」
エーリヒ殿下の声に、かすかな苛立ちが混ざった。
「人混みは資料に悪い。リーゼロッテ嬢、展示の確認をしたい」
ヴォルフは殿下の方を見もせず、私にだけ話しかけた。
(……資料? 展示の確認? 今?)
意味が分からなかったけれど、この場を離れる口実としてはありがたい。
「失礼いたします、殿下」
一礼して、ヴォルフの後についていく。広間を抜けて、廊下に出た。
「……展示の確認って、何を」
「何もない。口実だ」
あっさりと言い切った。
(え、口実って認めるの、この人)
「酒の場に長くいても意味がない。仕事に戻れ」
「……祝宴なのに」
「学術的成果を酒で祝う習慣は非合理的だ」
(出た。この人の非合理的)
少しだけ笑ってしまった。
◇
書庫に戻る途中、ヴォルフが立ち止まった。
「あの男の提案を受けるつもりか」
突然だった。
廊下に二人分の足音だけが残って、ヴォルフの灰色の瞳がこちらを向いている。魔法灯の光を受けて、いつもより色が薄く見えた。
「……まさか」
笑って、首を振った。
「五年前に終わった話です。今の私にとって、あの方はただの第二王子殿下。それ以上でもそれ以下でもありません」
ヴォルフの表情が──変わった。
一瞬。
唇の端が、ほんの少しだけ緩んだ。目元のこわばりが、一枚だけ剥がれたような。普段は石を削り出したような顔をしている人の、氷が一滴だけ溶ける瞬間。
──あ。
心臓が、一回だけ鳴った。
(……何、今の。なに?)
「そうか」
ヴォルフはそれだけ言って、また歩き始めた。
私は少し遅れてその背中を追いかけながら、さっきの一瞬を反芻していた。あの表情。あの、ほんの微かな──
(疲れてるのよ。祝宴の後だし。ワインを一杯飲んだし。きっとそのせい)
そう自分に言い聞かせて、書庫への石畳を歩く。
背中を追いかけながら、ふと気づいた。
大広間でヴォルフが立っていた位置。あれは「護衛」の距離ではなかった。護衛なら、横か後ろにつく。
ヴォルフは私の「正面」に立った。
殿下と私の間を、自分の体で遮る位置に。
(……あれは何だったのかしら)
分からない。
分からないまま、書庫の扉を開けた。紙とインクの匂いが迎えてくれる。
作業台に座って、魔法契約書の修復に戻る。
聖女。代価。生命。まだ解読できていない文字が、たくさん残っている。
エーリヒ殿下の「力を貸す」という申し出。あの裏に何があるのか。名誉回復と引き換えに、再び私を手駒にするつもりなのか。
どちらにしても、答えは変わらない。
私はただの司書だ。本を直す。それだけでいい。




