第4話 五年分の手土産
「姉さん、五年分の手土産を持ってきたよ」
客室の扉を開けた瞬間、その声が飛び込んできた。
ユリウス。
私の弟。元ブレンターノ伯爵家嫡男──今は、ただの冒険者。
五年ぶりだった。
王宮に来て四日目の朝、ヴォルフから「弟御が王都に着いた」と告げられ、客室で待っていた。待っていたのだけれど、実際に顔を見たら、用意していた言葉が全部どこかへ飛んでいった。
「……ユリウス」
背が伸びていた。
五年前は私の肩までしかなかったのに、今は見上げなければ顔が見えない。日に焼けた肌。短く刈り上げた栗色の髪。頬に薄い傷跡がある。
そして──手。
両手が傷だらけだった。
指の関節が太くなっている。爪が短く割れている。剣を振り続けた手だ。冒険者として、五年間。
(この子は、私のために──)
泣きそうになった。泣いてはいけない。弟の前で泣いたら、この子が自分を責める。
「元気そうね」
「姉さんこそ。……ちょっと痩せた?」
「王宮の食事が口に合わないだけよ」
嘘だ。食事は辺境より余程いい。ただ、食べる時間を惜しんで修復作業に没頭しているだけだ。
ユリウスが大きな革鞄を持ち上げた。
ずしりと重い音がした。
「これが五年分。各地を回って集めたんだ。断罪に関わった証人の宣誓証言、当時の裁判記録の写し、マティルダ聖女様の公の場での発言記録──矛盾している箇所に全部印をつけてある」
鞄を開く。中には、束になった書類がぎっしり詰まっていた。
「……これを、一人で」
「冒険者をやりながらだから、時間はかかった。でも姉さん、俺は知ってるから。あの断罪がおかしかったことを」
ユリウスの声が、少し震えた。
「五年前、俺はまだ十五歳で何もできなかった。姉さんが連れていかれるのを見ているしかできなかった。だから──」
「ユリウス」
名前を呼んで、遮った。これ以上言わせたら、今度こそ涙が止まらなくなる。
「ありがとう。十分すぎるわ」
弟の頭に手を伸ばそうとして──やめた。もう、私が手を伸ばして撫でられる背丈ではない。代わりに、傷だらけの手をそっと握った。
硬い手だった。五年分の苦労が、掌に刻まれていた。
◇
書庫の作業室。
ヴォルフが証拠の束を一つ一つ確認している。
ユリウスは部屋の隅に立って、腕を組んだままヴォルフを観察していた。──値踏みしている目だ。弟は昔からそうだった。姉に関わる人間に対して、異常に目が厳しい。
「証言は二名分か」
ヴォルフが書類から顔を上げた。
「ああ。二人とも元貴族位保持者で、宣誓証言の形式を整えてある。一人は当時の裁判で証言台に立ったが、後から証言を撤回しようとして封じられた人物。もう一人は裁判の不正に気づいていたが、権力を恐れて沈黙していた地方貴族だ」
ユリウスの説明は簡潔だった。冒険者生活で余計な言葉を削ぎ落としたのか、それとも元々こういう話し方をする子だったか。五年前の記憶が曖昧で、少し悔しい。
「裁判記録の写しは、原本との照合が必要だ」
ヴォルフが言った。
「原本は宮廷書記官長の管轄下にある。書庫で発見した改竄の証拠と突き合わせれば、写しとの差異が改竄箇所を特定する根拠になる」
「改竄?」
ユリウスの目が鋭くなった。
「この数日で判明した。王宮書庫の古文書に、五年前の時期と一致する組織的な改竄痕跡がある。書記官長の公式インクが使われていた」
ヴォルフは淡々と事実だけを述べた。ユリウスの表情がみるみる硬くなる。
「……やっぱりか。裁判記録の写しを取った時も、妙に辻褄の合わない箇所があったんだ。原本が改竄されていたなら──」
「合点がいく」
二人の視線が交わった。
学者と冒険者。全く違う人種のはずなのに、「真実を暴く」という一点で噛み合っている。
「これだけの量を法的に有効な形に整理するには時間がかかる。リーゼロッテ嬢の修復作業と並行して、証拠の体系化を進める」
「手伝う」
「必要ない。証拠の整理は俺の管轄だ。お前は証言者との連絡を維持しろ。裁判になった場合、証人の出廷が必要になる」
ユリウスが少し目を見開いた。
──裁判。ヴォルフはそこまで見据えている。
「……宮廷魔導師殿」
「なんだ」
「姉を、頼みます」
ユリウスが頭を下げた。
冒険者の、飾り気のない一礼。王宮の作法からは程遠いけれど、そこに込められた重さは誰にでも伝わるものだった。
ヴォルフは答えなかった。
ただ──ほんの一瞬、顎を引いた。それがこの人なりの頷きだと、私はもう知っている。
(……ユリウス、ヴォルフ殿は頷いてくれたわよ。あなた気づいたかしら)
弟を見ると、少しだけ目元が緩んでいた。気づいたらしい。
◇
ユリウスが証言者への手紙を書くために客室に戻った後、私も作業室を出ようとした。
その時、ヴォルフが言った。
「弟御を迎えに行け。書庫は俺が見ている」
振り返ると、ヴォルフは既に書類に目を落としていた。
──迎えに行け?
ユリウスはもう客室にいるのだから、迎えに行く必要はない。でも、それはつまり……。
(今日はもう作業しなくていい、弟と過ごせ、という意味かしら)
そう解釈した。合理的な判断だ。五年ぶりの再会なのだから、姉弟の時間を確保するのは効率的──
作業室を出る瞬間、背後で気配がした。
肩に、何かが触れた。
ヴォルフの手だった。
一瞬。
本当に一秒にも満たない時間。肩甲骨の少し上あたりに、指先がかすかに触れて──すぐに離れた。
「……え」
振り返った時には、ヴォルフはもう書類を読んでいた。何事もなかったかのように。
(……今の、何?)
肩に触れられた。それだけだ。
たぶん、声をかけようとして止めたのだろう。この人は言葉より先に手が動くことがある。外套の時もそうだった。
(弟との時間を効率的に確保してくれたのね。ありがたい)
うん。それだけ。それだけのことだ。
廊下を歩きながら、無意識に肩に手を当てた。
触れられた場所が、まだほんのり温かい。
──気のせいだ。廊下が暖かいだけだ。
客室に向かう途中、若い魔導師見習い──確かクラウスという名の、ヴォルフの弟子で私の護衛を命じられた青年──とすれ違った。
「あ、リーゼロッテ嬢。師匠は?」
「作業室にいらっしゃいますよ」
「そうですか。……あの、さっき作業室から出てくる時、師匠があんなことするの初めて見ました」
「あんなこと?」
「いえ、何でもないです!」
クラウスは妙に慌てた様子で書庫の方へ走っていった。
(……何だったのかしら)
首を傾げながら、客室の扉を開ける。
ユリウスが机の前で手紙を書いていた。顔を上げて、少し驚いた顔をする。
「姉さん、今日はもういいの?」
「ヴォルフ殿が書庫を見てくれるって。だから──」
何と言えばいいのか分からなくなって、結局こう言った。
「積もる話、あるでしょう?」
ユリウスが笑った。五年前と同じ、少し照れくさそうな笑い方だった。
「……うん。五年分」
窓から午後の光が差し込んでいる。
弟の傷だらけの手を見ながら、私は思った。この手が集めた証拠が、五年前の嘘を暴く武器になる。
同じ頃、どこかで──書庫ではなく、もっと遠い場所で──誰かが誰かに指示を出していたことを、私はまだ知らない。
知るのは、もう少し先のことだ。




