第3話 インクは嘘をつけない
インクは嘘をつけない。人は嘘をつくが、インクは正直だ。
書庫に通い始めて三日。削り取られた文字の復元作業に没頭していた。
朝の鐘が鳴る前に作業台に着き、夕刻の鐘が鳴るまで手を動かし続ける。辺境の図書館にいた頃と何も変わらない。場所が王宮になっただけだ。
──ただし、辺境にはなかったものがある。
問題の頁を、もう一度光にかざす。
削り取られた表面に残る、かすかな筆圧の痕。その上から塗り重ねられた別のインク。二つのインクは、明らかに色が違う。
(原本のインクは鉄胆子インク。酸化して茶褐色に変色している。三百年分の変色だ。でも上書きされた方は──黒い。黒すぎる)
指先でそっと表面をなぞる。
鉄胆子インクは時間とともに褐色に変わる。これは前世の図書館でも常識だった。中世ヨーロッパの写本でも、日本の古文書でも同じだ。鉄とタンニンの化学反応は、どの世界でも変わらない。
上書きされたインクが黒々としているということは、原本よりはるかに新しい時期に書き加えられたということだ。
三百年前の文書に、後から文字を書き加えた人間がいる。
「……一箇所じゃない」
声に出して、自分で驚いた。
この三日間で修復した古文書は五冊。そのうち三冊に、同じ手口の改竄痕跡があった。特定の文字を削り取り、上から別の文字を書き加えている。削り方の角度、使われた小刀の幅、上書きインクの成分──全てが一致している。
同一人物の仕業だ。
しかも、一冊や二冊ではない。組織的にやっている。
(これは……個人の悪戯なんかじゃない)
背筋が冷えた。
五年前。私が断罪されたあの日。証拠として提示された文書は、本当に正しかったのか。あの裁判の記録は、改竄されていないと誰が保証できる?
──やめよう。今は推測より証拠だ。
深呼吸を一つ。
感情を振り払って、作業に戻る。修復師の仕事は事実を記録することだ。推測ではなく、目の前の紙とインクが語る真実だけを見ればいい。
◇
午後。ヴォルフに報告するために、書庫の奥の作業室に向かった。
扉を叩くと、「入れ」と短い返事。
中に入ると、ヴォルフは山積みの魔法書に囲まれて何か書き物をしていた。羽根ペンを走らせる手が止まり、灰色の瞳がこちらを向く。
「改竄の分析結果が出ました」
「聞く」
椅子を勧められた。──いや、正確には椅子の方向に顎をしゃくっただけだが、この人の場合はそれが「座れ」の意味だ。三日も一緒にいると、最低限の翻訳はできるようになる。
(無愛想にも程があるけれど、まあ、慣れた)
「三冊の古文書に、同一人物による改竄痕跡を確認しました。手口は全て同じ。原本の文字を小刀で削り取り、上から新しいインクで別の文字を書き加えています」
「インクの年代差は」
「原本のインクは鉄胆子インクで、酸化による褐色変化から三百年以上前のものと判断できます。上書きインクは変色がほとんどありません。新しいんです」
ヴォルフの目が細まった。
「どのくらい新しい」
「正確な年代は魔法鑑定が必要ですが、インクの変色具合から推測すると……十年以内。おそらく、五年前後」
五年。
その数字を口にした瞬間、作業室の空気が変わった。
五年前。
私が断罪された年。
ヴォルフは何も言わなかった。ただ、羽根ペンを机に置いて、両手の指を組んだ。
「……魔法鑑定で時期を特定できるか」
「ヴォルフ殿の専門ですね」
「ああ。インクに残留する微量の魔力から年代を割り出せる。この王宮で使われるインクには、偽造防止のために微量の魔力が混入されている。書記官が使う公式インクならなおさらだ」
公式インク。
書記官が使うインク。
「つまり、改竄に使われたインクが公式のものなら──」
「書記官しか入手できない。宮廷書記官長以外に、この規模の改竄ができる人間はいない」
ゲオルク。
宮廷書記官長。
名前が出た瞬間、ヴォルフの声のトーンが変わった。いつもの簡潔な事実確認から、何か硬い──決意のようなものが混ざった声に。
「リーゼロッテ嬢。魔法鑑定を行う。古文書を持ってこい」
「はい」
立ち上がりかけて、ふと気づいた。
作業室の窓際に、小さな魔法灯が置いてある。それ自体は珍しくない。王宮のどの部屋にもある照明器具だ。
ただ、その灯りの角度が──私が作業台で目を細めた方向を、正確に照らしていた。
(……あれ? さっき入った時、こんな角度だったかしら)
思い返す。扉を開けた時、灯りは確かに部屋全体を照らす位置にあった。私が報告書を広げて説明している間に、いつの間にか角度が変わっている。
ヴォルフを見た。彼は既に魔法書を開いて、鑑定の準備を始めている。何事もなかったかのように。
(……気のせいかしら。灯りの角度なんて、風で変わることもあるし)
うん。きっと風だ。窓が少し開いているし。
──窓は閉まっていたが、そこまでは確認しなかった。
◇
夕刻。
魔法鑑定の結果が出た。
ヴォルフが古文書の上に手をかざすと、淡い青白い光が頁の表面を走った。インクに残留する魔力が反応し、原本の文字と上書きの文字が、異なる色で浮かび上がる。
古い文字は金色。
新しい文字は──赤。
「原本の魔力残留は三百年以上前のもの。上書きの残留魔力は……五年前だ。誤差は半年以内」
五年前。
やはり。
「インクは宮廷書記官局の公式配合と一致する。筆圧と字形の特徴から、書き手は高度な書記訓練を受けた人物──」
ヴォルフが言葉を切った。
「宮廷書記官長以外にこの規模の改竄ができる人間はいない」
二度目。
同じ結論を、今度は魔法鑑定という動かぬ証拠とともに。
私は作業台の前に座ったまま、浮かび上がった二色の文字を見つめていた。金と赤。三百年前の真実と、五年前の嘘。
(五年前──私が断罪された年に、誰かが古文書を改竄していた。宮廷書記官長の権限を使って)
なぜ。
何のために。
何を消して、何を書き加えたのか。
「……ヴォルフ殿」
「なんだ」
「この改竄、ゲオルク書記官長殿が単独でやったのでしょうか」
ヴォルフは答えなかった。
ただ灰色の瞳が、一瞬だけ書庫の奥──あの封印された鉄の扉の方を向いた。
「今の段階では断定しない。だが──」
間。
「書記官長は文書管理の長だ。改竄の技術はあっても、改竄する動機は別の場所にあるかもしれん」
指示者がいる。
ヴォルフはそう言っているのだと思った。
窓の外が暗くなっている。夕刻の鐘はとっくに鳴り終えていた。
魔法灯の青白い光だけが、作業室を照らしている。
「リーゼロッテ嬢」
「はい」
「明日から封印区画の文書にも着手する。修復の優先順位を変更する」
「……いいのですか」
「手順の問題と言ったな。手順が変わった」
ヴォルフの声は平坦だった。いつもの、感情を排した事実確認の声。
けれど──その声の底に、三日前に王宮の門前で側近を黙らせた時と同じ、静かな怒りが流れている気がした。
(この人は怒っている。改竄という行為そのものに──学術を汚す行為に)
そう思った。
学術に真摯な人が、学術への冒涜に怒る。それは自然なことだ。
立ち上がって一礼する。
「明日、六時に」
「ああ。茶は用意してある」
三日連続で同じ台詞を聞いた。
同じ台詞なのに、今日は少しだけ、その声が温かく聞こえた。
(……疲れてるのかな、私)
作業室を出る。
廊下の窓から見える夜空は雲ひとつなく、星が冷たく光っていた。
改竄は組織的だ。
書記官長が実行者なら、その背後に指示者がいる。
五年前に何があったのか。
答えは、あの封印された扉の奥にあるのかもしれない。




