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断罪が五年前に終わっていたので今さら何をすればいいかわかりません  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 古い羊皮紙の匂いは


 古い羊皮紙の匂いは、辺境の図書館と変わらなかった。


 それが妙に安心する。

 王宮の書庫であろうと、辺境の小さな図書館であろうと、紙は紙だ。インクはインクだ。時間が経てば劣化し、虫に食われ、湿気に負ける。そこに身分の差はない。


 ──本は、人間より正直だ。


 朝六時。約束通り書庫に来ると、作業台の上に茶が一杯、湯気を立てていた。

 ヴォルフの姿はまだない。茶だけが先に用意されている。


(……本当に、茶だけは律儀な人ね)


 一口飲む。辺境では手に入らない上等な茶葉の味がした。温かい。それだけで、少し肩の力が抜けた。


 道具を広げる。

 革の巻き道具入れを開くと、前世から──いや、五年前に記憶が戻ってから少しずつ揃えてきた修復道具が、整然と並んでいる。薄刃の小刀、竹のヘラ、数種類の糊、和紙に似た極薄の補修紙、そしてインクの調合セット。

 辺境の図書館で使い込んだものばかりだ。柄が手に馴染んでいる。


「始めましょうか」


 独り言。

 最初の一冊を書架から取り出す。三百年ほど前の記録文書。表紙が半分剥がれ、背の糸が切れている。中の羊皮紙は乾燥で硬くなり、端が細かく裂けていた。


 ──こういう状態の本が、一番手がかかる。でも、一番やりがいがある。


 作業に没頭し始めた頃、背後に複数の足音が近づいてきた。



「あれが例の元罪人ですか」

「国宝に触らせるなんて、正気の沙汰ではない」

「宮廷魔導師殿の庇護だそうですが……」


 聞こえている。

 全部、聞こえている。


 王宮の関係者たち──文官や下級貴族だろう──が書庫の入口付近に集まって、こちらを遠巻きに見物していた。動物園の珍獣を見る目に似ている。


(五年前に断罪された元悪役令嬢が王宮に戻ってきた。そりゃあ見世物よね)


 手は止めない。

 止めたら負けだ。ここで動揺を見せたら、あの人たちの期待通りになる。


 羊皮紙の裂け目に、極薄の補修紙を当てる。糊の量は髪の毛一本分。多すぎれば紙が波打つし、少なすぎれば剥がれる。この加減は、五年間で体が覚えた。


「まあ、心配ですわ」


 その声に、空気が変わった。

 甘い花の香りが書庫に漂う。


 振り返らなくても分かる。見物人たちのざわめきが、さっきまでの好奇心から明らかな敬意に変わった。


「あの方のお近くに、元悪役令嬢がいるなんて……何かあったらどうするのかしら」


 マティルダ聖女様。

 五年前、私を断罪に追い込んだ張本人。


 振り返った。


 柔らかな金の髪。慈愛に満ちた薄紫の瞳。白い神殿服。絵に描いたような聖女だった。

 ──絵に描いたような、というのは褒め言葉ではない。完璧すぎて、額縁が見えるという意味だ。


「リーゼロッテ嬢。お久しぶりですわね」


 にっこり。

 見物人たちに向けた微笑みと寸分違わぬ角度で、私に笑いかける。


「……聖女様。ご無沙汰しております」


 立ち上がって、形だけの礼をした。膝は震えていない。五年分の距離が、私をちゃんと守ってくれている。


「王宮の書庫でお仕事をされるとか。大丈夫かしら、大切な古文書に何かあったら……」


 心配しているふりをしながら、周囲に不安を撒く。上手いものだ。五年前と全く同じ手口だった。あの時もマティルダは「心配」という名の毒を、笑顔で振りまいていた。


(変わっていないのね、あなたは)


 私が何か言い返す前に、奥の書架の間から足音がした。


「──技術を見てから判断すればよい」


 ヘルミーネだった。

 白髪を結い上げた古参司書は、マティルダには一瞥もくれず、私の作業台に歩み寄った。そして、私がたった今修復しかけている羊皮紙を覗き込む。


 沈黙が落ちた。


 ヘルミーネの目が、補修紙の当て方を追っている。糊の塗り幅。繊維の方向。裂け目に対する補修紙の角度。全てを見ている。


「……この当て方は」


 ヘルミーネが低く呟いた。


「繊維の流れに対して斜め四十五度。補修紙の端を漉いて薄くしてから当てている。こうすれば接着面の段差が出ない。……王都の修復師にも、ここまで丁寧な仕事をする者はおりません」


 見物人たちの空気が、一瞬で変わった。

 ヘルミーネは王宮書庫で三十年以上働いてきた古参だ。その人物が「王都の修復師を超えている」と言った。世辞で言うような人ではないことは、王宮の人間なら誰でも知っている。


「聖女様」


 ヘルミーネがようやくマティルダの方を向いた。その目は冷たくはないが、温かくもない。


「古文書の心配は無用です。この技術は本物ですので」


 マティルダの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。

 ──本当に一瞬。目を離していたら見逃すほどの、微かなひきつり。


「まあ、それは安心しましたわ。では、お仕事の邪魔はいたしませんわね」


 花の香りが遠ざかっていく。

 見物人たちも、ぱらぱらと散っていった。


 息を吐いた。

 手が震えている──と思ったが、違った。震えていたのは五分前まで。今はもう止まっている。作業に集中している間に、体が勝手に落ち着いたらしい。


(……本を直していると、余計なことを考えずに済む。五年間ずっとそうだった)


「ヘルミーネ殿」


「なんです」


「ありがとうございます」


 ヘルミーネは答えなかった。ただ、作業台の上の修復途中の羊皮紙をもう一度見て、小さく頷いた。


 それで十分だった。



 午後。


 最初の古文書の修復が完了した。剥がれた表紙を修繕し、切れた背の糸を新しい麻糸で綴じ直し、裂けた羊皮紙を一枚一枚補修した。


 仕上がりを確認するために、修復した頁を一枚ずつめくっていく。

 三枚目で、指が止まった。


「……これは」


 文字が消えている。

 いや、違う。消えたのではない。削り取られている。


 小刀で羊皮紙の表面を薄く削って、文字を物理的に除去した痕跡。上から別のインクで何か書き足した形跡もある。


(経年劣化じゃない。これは人の手で──意図的に消されている)


 指先で表面の凹凸をなぞる。削られた部分は周囲より微かに薄い。前世の図書館でも、こういう痕跡を見たことがある。中世の羊皮紙は高価だったから、古い文字を削って再利用することがあった。パリンプセストと呼ばれる手法だ。


 ただし、これはパリンプセストではない。

 再利用のために全面を削ったのではなく、特定の文字だけが狙って消されている。


 光の角度を変えて、削り取られた面を観察する。

 ──うっすらと、元の文字の痕跡が残っている。完全には消しきれていない。


「ヴォルフ殿に報告しないと」


 呟いた瞬間、背後から声がした。


「何を見つけた」


 振り返ると、ヴォルフがいた。いつからいたのか分からない。この人は足音が妙に静かだ。


「この頁です。文字が削り取られています。経年劣化ではなく、意図的な──」


「見せろ」


 ヴォルフが作業台に歩み寄った。

 その時、彼の視線が一瞬だけ作業台全体を走ったのが見えた。修復済みの頁、道具の配置、私の手元。全てを確認するような、学者の目。


(そういえば、この作業台──)


 ふと気づいた。

 道具の配置が、妙にしっくりくる。小刀は右手の届きやすい位置に。糊壺は左手前に。補修紙は正面奥に。光は左斜め上から差している。

 辺境の図書館での作業と、全く同じ配置だった。


(……偶然かしら。書庫の標準的な設えがこうなのかしら)


 気にしている場合ではなかった。ヴォルフが羊皮紙を覗き込んでいる。


「確かに、削られている。この痕跡は──」


 灰色の瞳が細まった。


「リーゼロッテ嬢。この文字が何を書いていたか、復元できるか」


「……痕跡の深さと筆圧の跡から、ある程度は。ただ、時間がかかります」


「構わん。報告は俺にだけしろ。他には漏らすな」


 その声に、いつもの簡潔さとは別の──何か硬いものが混ざっていた。


「分かりました」


 ヴォルフが作業台を離れる。その背中を見送りながら、私は削り取られた文字の痕跡に目を戻した。


 誰が。

 なぜ。

 何を消したのか。


 三百年前の古文書から、意図的に消された文字。

 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 分からないけれど──指先が、かすかに熱い。

 修復師の勘が言っている。これは、ただの劣化ではない。


 窓の外で、午後の鐘が鳴った。

 作業台の上の茶は、とっくに冷めていた。

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