第2話 古い羊皮紙の匂いは
古い羊皮紙の匂いは、辺境の図書館と変わらなかった。
それが妙に安心する。
王宮の書庫であろうと、辺境の小さな図書館であろうと、紙は紙だ。インクはインクだ。時間が経てば劣化し、虫に食われ、湿気に負ける。そこに身分の差はない。
──本は、人間より正直だ。
朝六時。約束通り書庫に来ると、作業台の上に茶が一杯、湯気を立てていた。
ヴォルフの姿はまだない。茶だけが先に用意されている。
(……本当に、茶だけは律儀な人ね)
一口飲む。辺境では手に入らない上等な茶葉の味がした。温かい。それだけで、少し肩の力が抜けた。
道具を広げる。
革の巻き道具入れを開くと、前世から──いや、五年前に記憶が戻ってから少しずつ揃えてきた修復道具が、整然と並んでいる。薄刃の小刀、竹のヘラ、数種類の糊、和紙に似た極薄の補修紙、そしてインクの調合セット。
辺境の図書館で使い込んだものばかりだ。柄が手に馴染んでいる。
「始めましょうか」
独り言。
最初の一冊を書架から取り出す。三百年ほど前の記録文書。表紙が半分剥がれ、背の糸が切れている。中の羊皮紙は乾燥で硬くなり、端が細かく裂けていた。
──こういう状態の本が、一番手がかかる。でも、一番やりがいがある。
作業に没頭し始めた頃、背後に複数の足音が近づいてきた。
◇
「あれが例の元罪人ですか」
「国宝に触らせるなんて、正気の沙汰ではない」
「宮廷魔導師殿の庇護だそうですが……」
聞こえている。
全部、聞こえている。
王宮の関係者たち──文官や下級貴族だろう──が書庫の入口付近に集まって、こちらを遠巻きに見物していた。動物園の珍獣を見る目に似ている。
(五年前に断罪された元悪役令嬢が王宮に戻ってきた。そりゃあ見世物よね)
手は止めない。
止めたら負けだ。ここで動揺を見せたら、あの人たちの期待通りになる。
羊皮紙の裂け目に、極薄の補修紙を当てる。糊の量は髪の毛一本分。多すぎれば紙が波打つし、少なすぎれば剥がれる。この加減は、五年間で体が覚えた。
「まあ、心配ですわ」
その声に、空気が変わった。
甘い花の香りが書庫に漂う。
振り返らなくても分かる。見物人たちのざわめきが、さっきまでの好奇心から明らかな敬意に変わった。
「あの方のお近くに、元悪役令嬢がいるなんて……何かあったらどうするのかしら」
マティルダ聖女様。
五年前、私を断罪に追い込んだ張本人。
振り返った。
柔らかな金の髪。慈愛に満ちた薄紫の瞳。白い神殿服。絵に描いたような聖女だった。
──絵に描いたような、というのは褒め言葉ではない。完璧すぎて、額縁が見えるという意味だ。
「リーゼロッテ嬢。お久しぶりですわね」
にっこり。
見物人たちに向けた微笑みと寸分違わぬ角度で、私に笑いかける。
「……聖女様。ご無沙汰しております」
立ち上がって、形だけの礼をした。膝は震えていない。五年分の距離が、私をちゃんと守ってくれている。
「王宮の書庫でお仕事をされるとか。大丈夫かしら、大切な古文書に何かあったら……」
心配しているふりをしながら、周囲に不安を撒く。上手いものだ。五年前と全く同じ手口だった。あの時もマティルダは「心配」という名の毒を、笑顔で振りまいていた。
(変わっていないのね、あなたは)
私が何か言い返す前に、奥の書架の間から足音がした。
「──技術を見てから判断すればよい」
ヘルミーネだった。
白髪を結い上げた古参司書は、マティルダには一瞥もくれず、私の作業台に歩み寄った。そして、私がたった今修復しかけている羊皮紙を覗き込む。
沈黙が落ちた。
ヘルミーネの目が、補修紙の当て方を追っている。糊の塗り幅。繊維の方向。裂け目に対する補修紙の角度。全てを見ている。
「……この当て方は」
ヘルミーネが低く呟いた。
「繊維の流れに対して斜め四十五度。補修紙の端を漉いて薄くしてから当てている。こうすれば接着面の段差が出ない。……王都の修復師にも、ここまで丁寧な仕事をする者はおりません」
見物人たちの空気が、一瞬で変わった。
ヘルミーネは王宮書庫で三十年以上働いてきた古参だ。その人物が「王都の修復師を超えている」と言った。世辞で言うような人ではないことは、王宮の人間なら誰でも知っている。
「聖女様」
ヘルミーネがようやくマティルダの方を向いた。その目は冷たくはないが、温かくもない。
「古文書の心配は無用です。この技術は本物ですので」
マティルダの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
──本当に一瞬。目を離していたら見逃すほどの、微かなひきつり。
「まあ、それは安心しましたわ。では、お仕事の邪魔はいたしませんわね」
花の香りが遠ざかっていく。
見物人たちも、ぱらぱらと散っていった。
息を吐いた。
手が震えている──と思ったが、違った。震えていたのは五分前まで。今はもう止まっている。作業に集中している間に、体が勝手に落ち着いたらしい。
(……本を直していると、余計なことを考えずに済む。五年間ずっとそうだった)
「ヘルミーネ殿」
「なんです」
「ありがとうございます」
ヘルミーネは答えなかった。ただ、作業台の上の修復途中の羊皮紙をもう一度見て、小さく頷いた。
それで十分だった。
◇
午後。
最初の古文書の修復が完了した。剥がれた表紙を修繕し、切れた背の糸を新しい麻糸で綴じ直し、裂けた羊皮紙を一枚一枚補修した。
仕上がりを確認するために、修復した頁を一枚ずつめくっていく。
三枚目で、指が止まった。
「……これは」
文字が消えている。
いや、違う。消えたのではない。削り取られている。
小刀で羊皮紙の表面を薄く削って、文字を物理的に除去した痕跡。上から別のインクで何か書き足した形跡もある。
(経年劣化じゃない。これは人の手で──意図的に消されている)
指先で表面の凹凸をなぞる。削られた部分は周囲より微かに薄い。前世の図書館でも、こういう痕跡を見たことがある。中世の羊皮紙は高価だったから、古い文字を削って再利用することがあった。パリンプセストと呼ばれる手法だ。
ただし、これはパリンプセストではない。
再利用のために全面を削ったのではなく、特定の文字だけが狙って消されている。
光の角度を変えて、削り取られた面を観察する。
──うっすらと、元の文字の痕跡が残っている。完全には消しきれていない。
「ヴォルフ殿に報告しないと」
呟いた瞬間、背後から声がした。
「何を見つけた」
振り返ると、ヴォルフがいた。いつからいたのか分からない。この人は足音が妙に静かだ。
「この頁です。文字が削り取られています。経年劣化ではなく、意図的な──」
「見せろ」
ヴォルフが作業台に歩み寄った。
その時、彼の視線が一瞬だけ作業台全体を走ったのが見えた。修復済みの頁、道具の配置、私の手元。全てを確認するような、学者の目。
(そういえば、この作業台──)
ふと気づいた。
道具の配置が、妙にしっくりくる。小刀は右手の届きやすい位置に。糊壺は左手前に。補修紙は正面奥に。光は左斜め上から差している。
辺境の図書館での作業と、全く同じ配置だった。
(……偶然かしら。書庫の標準的な設えがこうなのかしら)
気にしている場合ではなかった。ヴォルフが羊皮紙を覗き込んでいる。
「確かに、削られている。この痕跡は──」
灰色の瞳が細まった。
「リーゼロッテ嬢。この文字が何を書いていたか、復元できるか」
「……痕跡の深さと筆圧の跡から、ある程度は。ただ、時間がかかります」
「構わん。報告は俺にだけしろ。他には漏らすな」
その声に、いつもの簡潔さとは別の──何か硬いものが混ざっていた。
「分かりました」
ヴォルフが作業台を離れる。その背中を見送りながら、私は削り取られた文字の痕跡に目を戻した。
誰が。
なぜ。
何を消したのか。
三百年前の古文書から、意図的に消された文字。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
分からないけれど──指先が、かすかに熱い。
修復師の勘が言っている。これは、ただの劣化ではない。
窓の外で、午後の鐘が鳴った。
作業台の上の茶は、とっくに冷めていた。




