第1話 王宮の門は、罪人には狭い
「元罪人は正門を使えません。裏門へお回りください」
馬車を降りた瞬間に浴びせられたその一言で、五日間の旅の疲れが一気に吹き飛んだ。
嫌な意味で。
王宮の正門。白い石造りの門柱は、記憶の中よりずっと大きい。五年前、ここを通って断罪の場に引きずり出された時は、門の大きさなど気にする余裕もなかったけれど。
私の前に立ちはだかっているのは、第二王子エーリヒ殿下の側近──名前は知らない。知る必要もない。彼の背後に門番が二人、気まずそうな顔でこちらを見ている。
「……左様ですか」
驚きはなかった。
こうなることは馬車の中で何度も想像していた。五年前に「悪役令嬢」として公開断罪された人間を、王宮が歓迎するわけがない。
(まあ、そうよね)
問題は、想像していたからといって、胸の奥が痛まないわけではないということだ。
五年前の記憶が、不意に鮮明になる。
あの日も晴れていた。群衆の罵声。冷たい石畳の感触。エーリヒ殿下の──いや、やめよう。今さら思い出しても仕方がない。
私が裏門への道順を聞こうと口を開きかけた、その時。
「国家事業の専門家への侮辱は、王命への反逆に当たるが」
隣から響いた声は、感情というものを一切含んでいなかった。
ヴォルフガング・ヴァイス。宮廷魔導師。伯爵家次男。そして、私をこの場所に連れてきた張本人。
「それでよいか」
たった一言だった。
けれどその一言に、側近の顔色が変わった。
「……し、しかし、宮廷魔導師殿。この者は五年前に断罪を受けた──」
「古文書修復事業は陛下の承認を経て宮廷魔導師局が正式に発令した国家事業だ。この人物はその事業に招聘された専門家であり、招聘状にも公印がある」
ヴォルフが懐から取り出したのは、蝋封の押された公文書だった。
側近がそれを受け取り、中を確認する。その手が、わずかに震えている。
(……あの公印は、宮廷魔導師局の正式なものだ。これを否定するなら、陛下の承認そのものを否定することになる)
「国家事業の専門家を正門から通さないということは、宮廷魔導師局の決定を否定することになる。ひいては、その決定を承認した陛下の判断を否定することにもなるが」
ヴォルフの灰色の瞳が、側近を見下ろしている。
見下ろしている、というのは比喩ではない。ヴォルフは背が高い。側近より頭半分は上にいる。その高さから、まるで書類の誤字を見つけた時のような無感動な目で──ただ事実を述べているだけの目で、相手を見ていた。
沈黙。
門番たちが目を逸らす。側近の喉仏が上下に動いた。
「……ご案内いたします」
道が開いた。
側近は公文書をヴォルフに返し、足早に門の中へ消えていった。たぶん、エーリヒ殿下に報告するのだろう。どうぞご自由に。
門番の一人が「宮廷魔導師殿の客人」として私の名を記録する。その手つきは事務的で、敵意はなかった。門番にとっては、正式な手続きを踏んだ入城者をもう一人記帳するだけのことだ。
正門をくぐる。
白い石畳が続いている。その先に、五年前の記憶とほとんど変わらない王宮の姿があった。
「……ヴォルフ殿」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「仕事だ」
簡潔。
この男はいつもこうだ。
◇
五日前のことを思い出す。
辺境の町を出発した馬車の中で、ヴォルフはほとんど口を開かなかった。
出発前に「五日かかる」と言ったきり、窓の外を見ているか、持参した魔法書を読んでいるか、目を閉じているかの三択。話しかければ答えてくれるが、自分から話題を振ることは一度もなかった。
ただ、不思議なことがあった。
休憩のたびに、私が馬車を降りると、既に茶が用意されていた。
一杯目は必ず私の分。ヴォルフ自身の分は後。御者に聞いたら「宮廷魔導師殿の指示で」とだけ言われた。
(……効率的な人なのだろう。先に客人の分を準備するのは合理的だ)
そう解釈した。
五日目の朝。王都まであと半日という距離で、急に雲が出た。
馬車の中の空気が湿り気を帯び始めた頃、隣に座っていたヴォルフが、無言で自分の外套を脱いだ。
そして、私の肩にかけた。
「……え」
「資料が湿気で傷む」
それだけ言って、ヴォルフは再び魔法書に目を落とした。
──資料。
私は自分の膝を見た。
何もない。
修復に使う資料は全て旅行鞄に入れてあり、鞄は足元に置いてある。膝の上には何も載せていない。
(……資料は鞄の中なんだけど)
まあ、鞄の中の資料も湿気には弱いし、外套をかけてくれること自体はありがたい。細かいことを指摘するのも野暮だろう。
外套は革と、少しだけ薬草の匂いがした。温かかった。
それだけのことだ。
◇
王宮書庫は、王宮の東翼の奥にあった。
石造りの重い扉を開けた先に広がっていたのは──本の匂い。
古い紙と、革の装丁と、微かなカビの匂い。辺境の図書館と同じ匂いだ。
ただし、規模が違った。
「これは……」
天井まで届く書架が、何列も何列も並んでいる。その一つ一つに、修復を待つ古文書が詰まっている。背表紙が崩れかけたもの。表紙が外れて裸の状態で積まれたもの。虫食いの穴だらけの羊皮紙が、束のまま棚に押し込まれたもの。
五年間、辺境で修復してきた本の量を全部合わせても、この書庫の一角にも満たない。
「ひどい状態ですね」
独り言のつもりだったが、隣からヴォルフの声が返ってきた。
「ああ。十年以上まともな修復が行われていない」
「十年……」
「予算がつかなかった。書記官長が文書管理を担当しているが、修復への関心は薄い」
書記官長。ゲオルク。名前だけは聞いたことがある。
「リーゼロッテ嬢」
奥から声がかかった。白髪を一つに結った女性が、書架の間から姿を現す。年配の、しかし背筋の伸びた人だった。
「ヘルミーネ殿。こちらがリーゼロッテ嬢だ」
ヴォルフが簡潔に紹介する。ヘルミーネと名乗ったその人は、王宮書庫の古参司書だという。
「お待ちしておりました。宮廷魔導師殿からお話は伺っております」
ヘルミーネの目は、私ではなく私の手を見ていた。
──修復師の手を見る人の目だ。指先の古いインク染み、爪の短さ、薬品で少し荒れた皮膚。それらが技術者の証であることを、この人は知っている。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
頭を下げると、ヘルミーネが小さく頷いた。歓迎とも警戒ともつかない、慎重な頷きだった。
当然だ。元罪人が王宮に来たのだから。
ヘルミーネに案内されて書庫の奥へ進む。修復用の作業台が用意されていた。光の入る窓際で、道具を広げるのに十分な広さがある。
辺境の図書館の作業机の、倍はある。
──仕事がある。
その一言が、胸の中でじんわりと温かく広がった。
門前で受けた侮辱も、五年前のフラッシュバックも、この匂いの前では色褪せていく。古い紙とインクの匂い。私が五年間しがみついてきたものの匂い。
(ここに、私の仕事がある)
それだけでよかった。
本を直す。ただそれだけのことが、今の私を支えている全てだ。
「リーゼロッテ嬢」
ヴォルフが書庫の最奥を指した。
薄暗い通路の突き当たりに、鉄の扉がある。扉には複雑な紋様が刻まれており、その紋様が淡く青白い光を帯びていた。
魔法による封印。
「あの奥にも古文書が?」
「大量にある。だが、あそこは後だ」
後。
ヴォルフの声に、ほんの一瞬だけ、いつもの簡潔さとは違う何かが混ざった──ように聞こえた。
「なぜです」
「手順の問題だ。まずは手前の未修復分から取り掛かってもらいたい」
合理的な説明だった。手前に膨大な量の未修復古文書があるのだから、そちらが優先なのは当然だ。
当然なのだけれど。
封印された扉の前を通り過ぎる時、背筋を冷たいものが走った。
あの紋様は、ただの保管用の封印にしては強すぎる。辺境の図書館にも貴重書の保管庫はあったけれど、魔法で封じるほどの物は一冊もなかった。
国宝級の古文書を守るための封印なのか。
それとも──誰かの目に触れさせないための封印なのか。
振り返ると、ヴォルフが扉を見ていた。
その灰色の瞳に、何かを測るような光がちらりと過ぎた。気のせいかもしれない。
「明日から作業を始める。今日は休め」
「はい」
窓の外から、夕刻の鐘が響いた。
王都の鐘は辺境のそれより低く、重い。
客室に案内されるまでの廊下を歩きながら、私は封印された扉のことを考えていた。あの奥に、何がある。国宝級の古文書が十年以上も修復されず、魔法で封じられたまま眠っている。それを修復するために、わざわざ辺境から私が呼ばれた。
──ただの古文書修復なら、王都にも修復師はいるはずだ。
ヴォルフの足音が、二歩先で規則正しく響いている。
その背中に問いかけたいことが、いくつもあった。
客室の前で立ち止まったヴォルフが、振り返らずに言った。
「朝は六時に書庫へ来い。茶は用意してある」
それだけ言って、足音は廊下の先へ消えていった。
──また、茶。
(この人は本当に、必要なこと以外喋らないのに、茶だけは欠かさないのね)
客室の扉を閉めて、息をついた。
窓から見える王都の夕空は、五年前と同じ色をしていた。
あの封印の奥に、何が眠っているのだろう。
答えはまだ、誰も教えてくれない。




