黒板のいちばん下
教室は、静かだった。
何も変わらないはずの景色。
それなのに。
一度失ったものは、もう元には戻らないと知っている静けさだった。
黒板の前に立つ。
チョークを持つ。
指先の震えは、もう隠さない。
黒板の端を見る。
消したはずの跡。
何度もなぞった場所。
そこに——確かにあった。
呼べなかった名前。
「……」
喉が、鳴る。
逃げようと思えば、まだ逃げられる。
でも。
もう、逃げない。
机に置いたノートを開く。
あのとき見つけたページ。
滲んだ文字。
『もし、全部忘れても。
この名前だけは、消すな。
お前が呼べ。』
指でなぞる。
あの時は分からなかった。
でも、今なら分かる。
これは——
自分に向けられていた。
息を吸う。
ゆっくりと、吐く。
黒板に向き直る。
チョークを走らせる。
『誰かを、見捨てるな』
音が、やけに大きく響く。
その下に、書く。
『結城』
手が、止まる。
胸の奥が、強く締め付けられる。
浮かぶ。
あの日の背中。
あの声。
「どうせ、いなくなるんだろ」
振り返らなかった自分。
軽く返した言葉。
「……なるな」
足りなかった。
何もかも。
それでも——
消えない。
「……結城」
声に出す。
黒板に書いた名前と、同じ響き。
初めて、ちゃんと呼ぶ。
遅すぎるくらいに。
その瞬間。
教室の空気が、わずかに揺れる。
返事はない。
それでも。
そこにいる気がした。
あの席に。
変わらない顔で。
ただ、静かに見ている。
責めるでもなく。
ただ、待っていたみたいに。
「……ごめん」
言葉が、落ちる。
それでも。
もう一度、顔を上げる。
終わらせないために。
その下に、書く。
『湊』
さらに。
『奏』
全部、繋がっている。
消えていない。
ここに、残っている。
黒板のいちばん下。
ぽっかりと空いた場所。
そこを、見つめる。
ここは、埋める場所じゃない。
次に繋ぐ場所だ。
チョークを置く。
振り返る。
誰もいない教室。
それでも。
確かに、いる。
呼ばれた名前。
届かなかった言葉。
そして。
これから届くかもしれない言葉。
「……出席」
静かに、始める。
一人ずつ。
名前を呼ぶ。
ちゃんと、聞く。
ちゃんと、向き合う。
もう、見逃さないように。
最後。
ほんの一瞬、間が空く。
あの日と同じ。
でも——
今度は違う。
息を吸う。
そして。
はっきりと。
「……結城」
その名前が、教室に残る。
今度は、消えない。
呼ばれた名前に、小さく息をのむ音がした。
ノートを閉じる。
もう、必要ない。
忘れても、大丈夫だ。
呼べるから。
黒板を見る。
『誰かを、見捨てるな』
その言葉は、もう。
一人のものじゃない。
黒板のいちばん下。
そこは——
終わりじゃない。
始まりだ。
もしもよろしければ、1番心に残った“名前”を教えてください。




