最後の授業
名前が、出てこない。
黒板に、チョークを当てる。
カツ、と乾いた音。
それだけが、教室に響く。
本当は——
呼ぶはずだった。
いつも通りに。
何も変わらないみたいに。
「……」
口を開く。
でも、声にならない。
何かが、抜け落ちている。
決定的な、何かが。
教室は静かだ。
生徒たちは、こちらを見ている。
その視線の中に——
ひとつ、足りない。
そう感じた瞬間。
胸の奥が、ざわつく。
黒板の文字が、滲む。
自分で書いたはずなのに。
遠い。
やけに、遠い。
思い出そうとする。
必死に。
あの席。
窓際。
頬杖をついて、外を見ていたやつ。
「どうせ、いなくなるんだろ」
あの声。
あの目。
あの——
「……っ」
喉が詰まる。
そこから先が、出てこない。
名前だけが、抜け落ちている。
手のひらが、じんわりと汗ばむ。
呼ばなきゃいけない。
分かっているのに。
出てこない。
黒板に、視線を落とす。
端の方。
消しきれていない白い跡。
そこに、確かに何かを書いた。
そう思うのに。
読めない。
「……なんでだよ」
小さく、こぼれる。
分からない。
どうして思い出せないのか。
どうして——
忘れているのか。
その代わりに。
一つだけ、残っている。
――そのときは、ちゃんと名前、呼んでやるよ。
あの日。
軽く言った言葉。
何気なく、流した約束。
それだけが、鮮明に残っている。
息が詰まる。
喉が震える。
視界が、滲む。
「……ごめん」
声が、崩れた。
初めてだった。
こんな風に、自分の声が壊れたのは。
名前が言えない。
約束したのに。
呼ぶって、言ったのに。
何も、できなかった。
間に合わなかった。
見ていたはずなのに。
気づいていたはずなのに。
それでも——
届かなかった。
膝が、わずかに揺れる。
立っているのが、やっとだった。
それでも。
逃げない。
目を逸らさない。
ここで、終わらせない。
黒板を見る。
『誰かを、見捨てるな』
その言葉が、突き刺さる。
守れなかった。
自分で書いたくせに。
一番、守れなかった。
それでも——
終わらせない。
「……出席」
震える声で、言う。
逃げないために。
繋ぐために。
一人ずつ、名前を呼ぶ。
ちゃんと、聞く。
ちゃんと、見る。
一つも、取りこぼさないように。
最後の一人。
ほんの一瞬。
間が空く。
そこに、確かに“いた”はずの名前。
でも——
やっぱり、出てこない。
唇が、震える。
それでも。
前を向く。
「……以上」
静かに、終わる。
教室には、何も残らない。
でも。
胸の奥には、残っている。
呼べなかった名前。
守れなかった約束。
それでも——
繋がなきゃいけないもの。
黒板の端。
白い跡が、わずかに光る。
まるで、そこに。
まだ、名前があるみたいに。




