第2話 赤との出会い
ぼうっとした感覚が少しずつ抜けていく。
ゆっくりと目を開けると、目の前の景色が、徐々に輪郭を取り戻し始めた。
(……なんだ、この感覚)
さっきまでの、疲労で泥が詰まったような頭の重さが嘘のように消えている。
霧が晴れたような、爽快な思考。
肌を撫でる強い風、草木のざわめき、土の匂い。
そのすべてが、異様なほどはっきりと感じ取れた。
「……手が、小さい?」
状況を確かめようと自分の手を見て、硬直する。
細く、若々しい手をしている。自分のものとは、明らかに違う。
慌てて、目の前の泉へ這い寄った。
泉の中心には苔むした石像が据えられ、水面は透き通っているのに、底はまるで見えない。
その水面を覗き込むと、映っていたのは——慣れ親しんだ記憶とは異なる、青年の顔だった。
年の頃は二十歳より若いだろうか。
癖のある黒髪が額にかかり、線の細い顎に、まだ幼さの残る目元。
見慣れた無精髭も、社会人になってから取れなくなっていた目の下のクマもなかった。
「俺……じゃ、ない……?」
(状況が飲み込めない。マンガで読んだような、転生……? いや、ありえないだろ)
キョロキョロと見渡しても、周りには誰もいない。
何も持っていない。あるのは、自分の身ひとつ。
(こういうとき、ゲームの主人公なら、たいてい取り乱す場面だよなあ)
いざ自分がその立場になってみると、そんなことを考えられるほどには冷静だった。
取り乱すよりも先に、まずは、現状を確認しないと——という考えが優先される。
とりあえずなにかヒントが欲しいと考えを巡らせる。
(……いやあ……まさかとは思うけど……)
長年のゲーム生活で凝り固まったファンタジー脳が、一つ目の可能性を潰しておこうと、口を動かした。
「スキルボード」
ヴン、と。目の前に、青白いウィンドウが立ち上がった。
「うわあああ……ッ!?」
非現実的な光景に、心臓が跳ね上がる。
恥ずかしながら、ありえないような選択肢を口にしたつもりでいたが、それが現実になった。
この状況が指し示す事実に、驚きとともに、僅かな興奮を覚える。
◆――――――――――――◆
【 ステータス 】
名前:リツ Lv:1
・状態異常無効 ※現在は使えません
・四識眼 ※現在は使えません
・空間魔法(特級) ※現在は使えません
◆――――――――――――◆
(うわ……レベル一に戻されてる……ってことは「初期状態から再スタート」系か……)
(最後の空間魔法まで、ちゃんと選べてるな……けど……空間魔法かあ……)
(というか、結局、選んだスキル全部使えないじゃん……なんだよこれ……)
癖のように思考を巡らせていると、また、ピコン、という音とともに、青白いウィンドウがもう一つ出現した。
◆――――――――――――◆
【 メインストーリー 】
『赤との出会い』
◆――――――――――――◆
その表示を見て、呼吸が荒くなる。
このストーリー名には、はっきりと覚えがあった。
(……『ダークロ』。間違いない。ダークロの初期イベントだ……!)
「だれかっ……助けて!!」
ビューっと風が吹いたかと思うと、森の奥から必死の悲鳴が聞こえる。
バッと目を向けると、少し離れた茂みの奥を、赤い頭巾を被った金髪の少女がガサガサと走っている。
そして、その後ろを——巨大な体躯の獣が、ゆったりとした動きで追っている。
(おいおいおいおい……まじかよ……)
見間違えようがない。ゲームのストーリーが、そのまま目の前で動き出している。
そして、この後の展開を思い出して、リツは戦慄した。
(やばい。動かないと。ゲームオーバーになる)
『ダークロ』では、ほんの僅かな行動選択だけで、いとも簡単に死に、ゲームオーバーとなる。
それも特に序盤は、「悪意で満ち溢れていること」を分からせるように、何度も何度も死を体験させられる。
突然の出来事が積み重なっている状況ではあるが、リツの頭は冴えていた。
——先を読み、勇気を持って、今できる最善手を打つ。
やり込んだゲームの知識なのか、はたまた、仕事で降りかかる多種多様な問題を一つずつ片付けてきた経験からくるものなのか。
自分でも分からなかったが、この感覚には覚えがあり、判断して行動することは体に染みついていた。
(助けに走るのは、悪手だ)
丸腰で獣の前に飛び出したところで、無防備に殺されてしまうだけ。
ゲームで積み上げた知識が、意識せずとも引きずり出されてくる。
ここで取るべき行動は、救出ではなく、力を手に入れること——。
自信の有無は関係ない。とりあえず、やってみるしかない。
そう自分に言い聞かせると、自分の決断を信じて、底の見えない泉にそのまま飛び込んだ。
(……ゲーム通りなら、これで合っているはず……合っているよな……?)
ゴボゴボという音の中で不安になり、目を少しだけ開けてみると、体の周りが光に包まれていくのが分かった。
徐々に光の玉に包まれると、不思議な浮遊感覚とともに、そのまま泉から引き上げられた。
音も、重力のようなものも感じず、周囲は見渡す限りモノクロの世界になっている。
赤頭巾の少女も、その後ろを駆けている獣も、その姿は見えるのに、動きは完全に静止していた。
そして、リツは宙に浮いたまま、泉の中心部にある女神像の前へと運ばれていった。
(やっぱり……合ってた)
次の動きを待ち構えていると、想像通りの問いかけが始まる。
『選択の泉へようこそ。どの力を手にするか、選択してください』
◆――――――――――――◆
【 職業選択 】
▶ 強固な肉体、叩き込む力
▶ バランスの取れた器用さ、振り下ろす力
▶ 素早さと観察力、飛ばす力
◆――――――――――――◆
機械的な音とともに、ウィンドウが立ち上がった。
最初の能力を選ぶ選択画面である。
一見、好みに合わせて自由に選べるように見えるが、実際の正解は一択で、それ以外を選べば少女もろとも獣に殺される——ゲームでは、そういう仕様だったはずだ。
「……飛ばす力」
そう声を出すと、再び光に包まれる。
気づけば、腰に短剣、背に弓矢が装備されていた。
そして、徐々に世界の色が戻っていき、ゆっくりと周囲が動き始める中で、リツは泉の縁に降ろされた。
「よし……これで……!」
足が地についた瞬間、弓を構え、矢をつがえる。
現実では触れたこともないはずなのに、補正がかかっているのか、手は驚くほど滑らかに弦を引いた。
ギリギリと引き絞り、狙いを定める。
そして、放った矢はまっすぐに飛び出し——獣に当たった。
だが、毛皮のように見えた獣の体表は、見た目以上に硬いようで、矢は先端が少しだけ刺さったあと、ポロリと無惨に落ちてしまう。
それでも、矢が当たったことに気づいた獣は動きを止め、赤頭巾の少女とリツを交互に見る。
そして、最後にリツへ視線を据えると——ニンマリと、笑った。
(魔獣ヴルド……。
この世界の魔獣は、一定の強さになると知性を持つ。
そして、知性を持った魔獣の思考は、邪悪そのものだ。人間の心が絶望することを好む)
大きく咆哮を上げ、巨体がリツをめがけて突進してくる。
足がすくむ。
(っ、本当にこれで合ってるんだよな……!)
「ううぅ……うわぁあああああ!!」
確信が持てないまま、半ば叫ぶように身構えた、その時。
はるか後方、いつの間にか座り込んでいた少女から、ボソボソとした呟きが聞こえた。
「……塵に……なれ……」
ゴォオオオオオオオッ!!
その言葉とともに、少女から轟炎が放たれた。
一直線に獣へと走った炎が、その巨体を直撃する。
獣は断末魔の叫びを上げたが、それも一瞬。
轟々と燃え盛る炎に飲み込まれ、身動きをしなくなり、もう、その輪郭すら見えなくなった。
「やっぱり……シナリオ通り、だった……」
恐怖から解放された反動か、ドッと力が抜けて、その場に尻から倒れ込んだ。
ふぅ、と息をつく。
燃え続け、黒い塊と化していく獣の、その向こうに——座り込んだままの少女が見える。
(……っ、このままじゃだめだ。早く動かないと……!)
気力を振り絞って立ち上がる。
バチバチと爆ぜる炎の脇を駆け抜け、少女のもとへ走った。
気づけば、熱風に煽られた炎が、獣のいた場所から周囲の森へと、猛烈な勢いで燃え広がり始めている。
「大丈夫ですか!? 早く、ここを離れましょう」
赤頭巾の少女は俯いたまま、呆然として動かない。
その間にも、森は熱を増し、煙が辺りに充満し始めた。
「やっぱりだ……くそっ、早くっ!」
これ以上は待てないと、少女の腕を強引に掴み、引っ張って走り出した。
(早く……あそこまで……!)
風に煽られた炎が、まるで二人を追うように森を焼きながら迫ってくる。
それでも、少女の手を引き、枝々の間を必死に走り抜けた。
無我夢中で駆け、森の切れ目までたどり着く。
振り返ると——森は、すでに全体が炎に包まれていた。
「なんとか……なった……。動き出しが、あと少し遅かったら……ここでゲームオーバーだったな……」
先ほどと同じように、その場に尻から倒れ込む。
気づけば腕が切れていて、真っ赤な血が滲んでいた。
森から立ちのぼる熱と、炎に飲まれかけた緊張とで、全身が汗だくだ。
ゼエゼエと荒い息を整えていると——少しして、赤頭巾の少女が、自分からそっと近づいてきた。
「……あ、あの……ありがとう……ございました」
少女は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私……おばあちゃんの家まで、修行に行ってたんです……。さっきの、獣みたいなの、いたでしょう……? あれ、人に化けられるみたいで……おばあちゃんに、変装してて……。そうとも知らずに、私、一緒にご飯まで、食べちゃって……」
取り留めもなく、ボソボソと言葉を続ける。
赤頭巾を、ゆっくりと外しながら。
「それで……襲われそうになって。でも、その直前に、あの獣、言ったんです」
少女の声が、ふと、止まった。
「『君がさっき食べたのは、おばあちゃんのお肉だよ』——って」
少女が、顔を上げた。
焦点の合わない、虚ろな瞳。
口の端からは涎が垂れ、正気を完全に焼き切られたような笑み。
そして、その両目は——血のように、鮮烈な赤に染まっていた。
「私、ルアって言います」
燃え盛る森を背に、その状況にはおよそ似つかわしくない自己紹介をして、少女は——ルアは、恍惚と微笑んだ。
こちらを見つめる真っ赤な瞳が、この世界が、もうゲームなどではないことを。
これから始まる物語が、どこまでも過酷であることを——静かに、告げていた。
ピコン、とシステム音が鳴り響いた。
◆――――――――――――◆
【 メインストーリー 】
『赤との出会い』 クリア
※チュートリアルが終了しました
◆――――――――――――◆
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
ブックマークしていただけたら、尻尾ちぎれるほど振って喜びます。ワン。




