第15話 葬断卿ヴァネヌス
その、ときだった。
——ふと、奥の闇で、何かが、動いた。
ジジジ……ッ。
鼓膜の奥で、スピーカーがハウリングしたような、不快な電子音が鳴る。
その瞬間——ぞくり、と。背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
考えるより先に、踏み出しかけた足が、凍りついたように止まる。
その一歩を踏み込んではいけないと、身体の芯が、悲鳴のように叫んでいた。
反射的に進もうとしていた身体を全力で止め、そっと壁際の陰へと身を隠した。
心拍が、痛いほど跳ね上がっていた。
バクバクという鼓動が、自分の内側だけで大きく響いている。
まだ自分でも理解できていない得体の知れない恐怖が、身体の自由を奪っている。
実際は十数秒程度だっただろう。
パニックになった頭を整理しようと、呼吸も忘れて動きを止めていると──わずかに見える、奥の部屋の中で、何かが動いているのが見えた。
黒いモヤのようなものを纏った、大きな影。
中央の台をぐるりと回り込むように、ズルズルと、緩慢に徘徊している。
こちらに背を向けているのか、モヤの向こうに、長大な何かが担がれているのが見えた。
その先端が、ぎらりと光る。
——大鎌だ。
パニックになりそうな頭を精一杯抑え付けながら、そのまま硬直状態でじっとしていると、再度モヤが同じように見える場所を通り過ぎていく。
どうやら、中央の台の周りを、ぐるぐると巡回しているというような様子である。
リツは恐怖を必死に押し殺し、三度目にまわってきた姿がこちらからは見えなくなったところで、奥の部屋からは見えないようにそろそろと立ち上がり、周りに厳重に注意しながら元来た階段へと引き返す。
モヤが追ってくる気配はないが、いつこちらへ気づくかわからないという、得体の知れない圧が全身にのしかかってくる。
階段の下まで戻ると、黒猫が、そこに座っていた。
逃げるでもなく、急かすでもなく、ただ静かに、こちらを見上げている。
その姿を見て、危険だと忠告されていたことを思い出した。
結局、あのモヤが追ってくることはなく、階段を後退りしながら登り、入口の扉もソロリと飛び出した。
すぐに羽衣の紋を起動し、焼け跡の開けた場所まで一気に駆けると、リツはようやく足を止めた。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。
引いていた血の気が戻ってくるのが、自分でわかる。
(……逃げ、切れたよな?)
おそるおそる、自分の身体を見下ろす。
両腕も、胴も、脚も、何ひとつ欠けていない。
当たり前のことのはずなのに、それを確かめて安堵している自分がいた。
そして、荒れた息が整うにつれ——入れ替わるように、あの影の正体が、記憶の底から浮かび上がってきた。
——あれは、葬断卿ヴァネヌスだ。
葬断卿ヴァネヌス。
メインストーリークリア後に、ごく稀に湧く、ランダム出現のエクストラボス。
クリア後に到達できる区域の、どこかで特定の条件を満たすと現れる——とされてはいるが、その条件は、ついぞ解明されなかった。
攻略スレに残っていたのは「遭遇した」という断片的な報告ばかりで、まともな攻略情報は皆無。
そもそも、そこまで辿り着ける攻略者が、ほとんどいなかったのだ。
普段は、のろのろと徘徊しているだけ。
だが、ひとたび気配を感知すれば——モヤごと瞬間移動のように間合いを詰め、何が起きたかも分からぬうちに、大鎌の一振りで全てを終わらせる。
理不尽の化身のような存在だ。
リツはゲームで偶然遭遇したことがあり、その時は討伐している。
だがあれは、最強装備の一角である「自動迎撃付き装備」を手に入れていたからであり、あれがなければ、間違いなく死んでいた。
それほどの強敵である。
自分が今、どれほど危ない橋を渡ったのか。
今さらながら実感が追いつき、リツは、ぶるりと身を震わせた。
確かに、あの地下室は、本来ならクリア後にしか辿り着けない場所である。
どんな偶然を踏み抜いたのか、それとも、何かの条件が噛み合ってしまったのかわからないが、いずれにせよ——葬断卿ヴァネヌスが湧く可能性はゼロではなかった。
そんなことは、想定すらしていなかった。
だが、感知されていれば、間違いなく死んでいた。
こうして、生きているのは、——ただ単に、気づかれなかっただけなのだ。
あの、第六感のような判断が機能せずに、もう一歩踏み出していたら、感知され、気づいたときには、鎌の一振りで真っ二つだっただろう。
(……逃げられたんだよな。ちゃんと、この身体は、繋がってる)
もう一度、無意味に自分の腕を撫でて、その確かさを噛みしめる。
奇跡のように逃げおおせた幸運に、深く、安堵の息を吐いた。
まだ足元はふわついていたが、恐怖と緊張でどっと重くなった身体を、どうにか村まで運び、ベッドへ倒れ込む。
薄目を開けると、またいつの間にか現れた黒猫が、何も言わず、こちらを見ていた。
指に嵌めた指輪の重みを感じながら、張り詰めていた緊張から解き放たれ、意識は、すぐに暗く柔らかな眠りへと沈んでいった。
明日、王都へ発つ。
読んでいただきありがとうございます。
ブックマークや評価押していただけたら吠え続けます。逆か、静かになります。ワン。




