第10話 ザコ敵
一歩、足を踏み入れると、外の光はもう届かない。
ひんやりとした冷気と、湿った土の匂いが、鼻をつく。
ルアが唱えた「浮遊光」の魔法で、周囲三メートルほどまでは、どうにか見通せるようになった。
奥までは光が届かないが、大人が五人ほど並んで通れそうな道が、ずっと先まで続いている。
ふと足元を見ると、いつの間にか黒猫姿のステラが、リツの少し後ろをついてきていた。
どこから現れたかは分からないが、こういうところには、律儀についてくるらしい。
リツは斥候の役割で、先頭に立っているが、真っ暗で、敵のいる洞窟、そんなものに入るのは、生まれて初めてだ。
正直に言って、普通に恐怖である。
ゲームでは出てくるような地図も、敵が近くに来たときに始まる戦闘音の演出もない。
光が届く三メートル以外は、ただ黒い。
何かがいるのか、いないのか、確かめる方法がない。
情報がないということが、どれだけ恐ろしいかを実感する。
自分の足音が、やたらと大きく響く。
背負った矢筒が、一歩ごとにかたりと鳴る。
どこかで水の落ちる音がする。
なんの音かを分かっていても、身体のほうが勝手に反応してしまう。
だが、この中で実年齢が一番上なのは自分だという、小さなプライドもある。
ビビっていると思われるのも情けない。
中身は二十八歳である。
十歳以上も年上でありながら、探索者としての経験はさほど変わらない。
だからこそ、ルアやスルギの前では、一歩前に立っていなければならない気がした。
リツは不安を表に出さないまま、歩を進めた。
背後では、ルアの浮遊光がゆらゆらと揺れている。
その少し後ろで、スルギが刀の柄に手をかけたまま歩いているのが、気配で分かった。
二人とも、さっきから一言も喋らないが、怖いのは、自分だけではないようである。
前方に意識を向けると、四識眼の権能のひとつ、「遠識」が働くのがわかった。
心が凪いで、周囲の気配や、かすかな音に、神経が研ぎ澄まされていく。
暗闇の先、目視できる範囲より数メートル奥まで、何かがいれば気配で捉えられる。
ただ、本来この権能は、見えないような広範囲の敵位置まで察知できるはずだった。
今それが叶わないのは、やはりリツのレベルがまだ低いせいだろう。
それでも、この暗闇の中では非常に心強い。
歩いても、歩いても、何も出てこない。
結構進んだ気もするが、実際にはまだ少ししか歩いていないのかもしれない。
特に問題はない状況である。
だが、身構えたまま何も起こらない時間というのは、想像していたよりもずっと消耗する。
いつ来るか分からないものを待ち続けるのは、来ると分かっているものを待つより、はるかに悪い。
そして、しばらく進んだところで——ようやく、前方に、気配を感じた。
自分の警戒が正常に反応していることに、安堵を覚えるが、落ち着いている暇はない。
「待って。何か、来る」
そう呼びかけ、短剣に手をかけた、その瞬間。
キィーーーン、と甲高い音が響き、正面の闇から、ギラリと光る何かが飛んできた。
リツは咄嗟に短剣を掲げ、飛来物が刃にぶつかった。
硬い音とともに軌道を変え、飛んできたものは天井へと張りついた。
「刃コウモリだ……!」
四識眼を使って確認するまでもなく、その姿形から、明らかだった。
そして——刃コウモリという魔物を思い出すとともにリツの背筋が、ぞっと粟立った。
刃コウモリ。
ゲームでは、初期魔窟に出る、ただの雑魚だ。
特別な能力もなく、外側に刃の付いたハネを広げて、真っ直ぐに飛んでくるだけ。
ゲームでは一撃か二撃でサクサク倒せて、手こずったという記憶は一度もない。
ただ、飛んできてわかった。
それは、画面の向こうの話だ。
ゲームなら、被弾しても削れるのはHPゲージの数値だけ。数発当たったところで、どうということはない。
だが、これは——ゲームではない。
今、あのハネの刃が、腕にでも深く当たれば、この先の冒険は続けられないだろう。
腹に当たれば内臓がこぼれる。そして、首にでも当たれば——即死だ。
想像した瞬間、身体じゅうの内臓が、ヒュッと縮こまった。
やり直せるゲームとは違う。今、自分は、死と隣り合わせなのだ。
それを、改めて思い知る。
ドクドクと心臓が早鐘を打つ。足が、ガクガクと震える。
恐怖のせいか、それとも昂りのせいか、自分でも分からない。
脳内にアドレナリンが噴き出し、リツの合理的な思考は、一瞬でパニックに塗り替えられた。
天井に張りついた影が、羽を広げる。
あれが生きている限り、この恐怖は終わらない。ならば。
(殺してやる……)
手にしていた短剣を投げ捨て、素早く弓矢を構える。
先ほどの刃コウモリに狙いを定めると、ちょうどそいつが、こちらへ向かって再び飛び始めた。
「リツ! 戻れ!」
スルギが大きな声を出した。
リツはハッとする。だが、冷静な判断ができない。
ほぼ同時に、刃コウモリへ向けた矢から、手を離す。
そして、その直後——前方から、別の音が聞こえた。
キィーーーン
別の刃が、闇を裂いて迫ってくる。
——死ぬ。




