第3章 契約と鎖
セラフィーヌは部屋のソファに座り、脚を組んだ。
優雅な所作だ。だが、その瞳は俺を値踏みしている。
値踏み。
そう、彼女は母親としてここに来たのではない。アッシュフォード公爵家の当主として、新たに手に入れた「駒」を確認しに来たのだ。
「率直に聞くわ」
彼女は言った。
「あなたは、何者?」
俺はベッドの端に腰掛けたまま、答える。
「日本の、死刑囚だ」
「……日本?」
知らない単語だったようだ。眉をひそめる。
「異世界の名前だ。俺はそこで冤罪に問われ、七年間独房に入れられ、絞首台で死んだ。それ以上は、必要ないだろう?」
セラフィーヌはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「ええ、十分よ。過去が何であれ、今のあなたはカエルム・フォン・アッシュフォード。アッシュフォード公爵家の嫡男。それ以外の身分は、この世界には存在しない」
淡々とした口調。
感情の欠片もない。
「一つ、聞いていいか」
「ええ、どうぞ」
「なぜ、俺の魂が選ばれた」
セラフィーヌは目を細めた。
「儀式は、魂を選ぶ。私が選んだわけではないわ。ただ、適性のある魂を、空の器に流し込む。それだけの術よ」
「適性?」
「この家の血は、特殊なの。強い魔力を持つ代わりに、子が生まれにくい。そして、生まれた子は……短命になりやすい」
短命。
つまり、本来のカエルムも、その犠牲者だったということか。
「カエルムは、三週間前に死んだ」
彼女は淡々と、自分の息子の死を告げた。
「熱病よ。医者も、治癒術師も、手が出せなかった。アッシュフォードの血は、外部からの干渉を拒絶する性質がある。治癒魔法すら、弾いてしまうの」
だから、死んだ。
五歳か六歳で。
「跡継ぎがいなければ、家は滅びる。他の公爵家が、領地と権益を喰らいに来るわ。だから、禁術を使った。死者の器に、別の魂を呼び寄せる儀式を」
「それが、俺だった」
「ええ」
彼女は俺を見つめる。
「あなたに、感謝しているわ。偶然か必然かは知らないけれど、あなたがこの体に入ってくれたおかげで、アッシュフォード家は存続した」
感謝。
口ではそう言っているが、その目に感謝の色はない。
あるのは、計算だけ。
この女は、俺を「救った」のではなく、「利用した」のだ。
わかっている。
だが、俺も利用されているだけではない。
俺も、この状況を利用する。
「条件を聞かせてくれ」
俺がそう言うと、セラフィーヌは興味深そうに首を傾げた。
「条件?」
「俺がアッシュフォードの嫡男として生きる代わりに、何を求められるのか。契約の内容だ」
彼女は小さく笑った。
「面白い。死刑囚だったというのに、交渉の仕方を心得ているのね」
「七年間、独房で弁護士と話していたからな」
「……なるほど」
セラフィーヌはソファから立ち上がり、窓際へ歩いた。
窓の外には、広大な庭園が広がっている。公爵家の本邸にふさわしい規模だ。
「条件は、三つ」
彼女は背中越しに言った。
「一つ。アッシュフォード公爵家を存続させること。家を滅ぼすような行為は許さない」
「当然だ」
「二つ。嫡男として、相応しい振る舞いをすること。貴族社会のルールを学び、魔力を鍛え、家を背負う者として成長すること」
「受け入れる」
「三つ――」
彼女は振り返り、俺を見た。
「この儀式の秘密を、絶対に漏らさないこと。あなたが『本来のカエルムではない』と知られれば、家は終わりよ。他の公爵家は、それを口実に家を潰しにかかる。わかるわね?」
俺は頷いた。
「当然だ。俺にとっても、死活問題だからな」
「ええ、そうね。あなたが死刑囚だったという過去も、この世界では通用しない。あなたはカエルム。それ以外の何者でもない」
わかっている。
俺は、この世界で生きる。
カエルム・フォン・アッシュフォードとして。
「代わりに、俺からも条件を出させてくれ」
セラフィーヌは眉を上げた。
「……あなたに、条件を出す権利があると思う?」
「ある。俺が家を存続させる駒になるなら、駒にも権利がある」
彼女はしばらく俺を見つめ、それから「ふふ」と小さく笑った。
「面白い。いいわ、聞いてみましょう」
「シエンヌについてだ」
俺の名前に、セラフィーヌの表情がわずかに動いた。
「あの娘を、俺の好きに扱わせてくれ」
「……好きに、とは?」
「跪かせない。敬語をやめさせる。使用人としてではなく、対等な人間として接する」
セラフィーヌは、不思議そうに首を傾げた。
「専属使用人は、貴族の所有物よ。どう扱おうと、あなたの自由だけれど……なぜ、そんなことを?」
「前世で、人間として扱われなかったからだ」
俺は言った。
「番号で呼ばれ、独房に放り込まれ、絞首台で殺された。名前を奪われることが、どれだけ人間を傷つけるか、俺は知っている」
「……」
「シエンヌは、名前を奪われている。名字がない。それは、人間として扱われていないということだ。俺は、それを許さない」
セラフィーヌは黙り込んだ。
彼女は俺を、値踏みしている。
この男は、 sentimental な感情で動いているのか。それとも、計算ずくか。
答えは、両方だ。
俺はシエンヌを道具として扱わない。それは感情から来るものだ。だが同時に、それは計算でもある。
彼女は、俺の最初の同盟者だ。
心を砕いた相手は、心を砕いて返してくれる。
道具として扱えば、道具としてしか動かない。だが、人間として扱えば、人間として動く。
俺は、人間としてのシエンヌが欲しい。
「……わかりました」
セラフィーヌは言った。
「あの娘の扱いは、あなたに任せます。ただし、公爵家の体裁を損なうような真似はしないでね」
「当然だ」
「それと――」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「エドモンドについては、気をつけて」
「エドモンド?」
「あなたの……いえ、カエルムの父親よ」
俺は首を傾げた。
「気をつけろ、とは?」
「彼は、本来のカエルムを深く愛していた。あなたが別人だと気づいているかどうかは、わからない。だが、彼の前では、くれぐれも『カエルム』として振る舞うこと。彼を傷つけないで」
父親。
この体の、本来の父親。
息子を失い、その体に別の魂が入っていると知ったら――彼は、どう思うだろう。
俺は、その問いに答えを持っていなかった。
「わかった。気をつける」
セラフィーヌは頷き、ドアの方へ歩いた。
ドアノブに手をかけ、彼女は振り返った。
「カエルム」
「なんだ」
「あなたは、強い子になりそうね」
それは、母親としての言葉だったのかもしれない。
あるいは、公爵家当主としての評価だったのかもしれない。
俺は、どちらでも構わなかった。
「当然だ。俺は、二度と踏みにじられない」
セラフィーヌは小さく笑い、部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
部屋には、俺とシエンヌだけが残された。
シエンヌは、部屋の隅に立っている。
彼女の表情は、複雑だった。
「……若様」
「シエンヌ」
「わたくしを、人間として扱ってくださるのですね」
「当然だ」
「……なぜ、ですか」
俺は彼女を見た。
銀色の髪。青い目。怯えたような、でもどこか期待しているような瞳。
「お前は、俺の最初の味方だからだ」
俺は言った。
「これから、長い時間がかかる。家を存続させ、力を手に入れ、この世界で生きていく。そのために、俺は味方が必要だ。そして、お前はその第一号だ」
シエンヌは、黙り込んだ。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「……わかりました。若様」
「シエンヌ」
「はい」
「これから、よろしくな」
俺は手を差し出した。
彼女は驚いた顔をしたが、ゆっくりと、その手を握り返した。
小さい手。震えている。
だが、確かに、そこにあった。
俺の、最初の同盟者。
窓の外では、太陽が沈み始めていた。
新しい世界での、最初の夜。
俺は、カエルム・フォン・アッシュフォードとして、生きていく。
二度と、誰にも踏みにじられないために。
そして、この手で、掴み取るために。




