第2章:姓を持たない少女
シエンヌは、淡々と語った。
この世界のこと。この国のこと。そしてアッシュフォード公爵家について。
彼女の説明は簡潔で、無駄がなかった。まるで報告書を読むような口調。五歳児に話すような配慮はない。
つまり、彼女は俺を五歳児だとは思っていないのだ。
「……以上が、若様が知っておくべき基本事項でございます」
俺はベッドに座ったまま、聞き終えた。
この世界には魔法がある。
貴族と平民がいる。王がいて、公爵がいて、伯爵がいて、と階級がある。
アッシュフォード公爵家は、この国で八つある公爵家の一つ。決して小さい勢力ではない。
そして、俺はその嫡男――カエルム・フォン・アッシュフォード。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は俺を、どう思っている?」
シエンヌは瞬きをした。
予想外の質問だったらしい。
「……若様は、若様でございます」
「それは答えになっていない」
俺は彼女の目を見る。
前世で七年間、独房で過ごした。人間観察だけは嫌というほどやった。看守の足音で機嫌を察し、弁護士のため息で裁判の行方を読んだ。
この少女は、何かを隠している。
いや、「隠している」というよりは、「話してはいけない」と教えられている、というのが正確か。
「シエンヌ、俺は覚えている」
「……」
「俺が誰かを。俺が何者かを」
沈黙が落ちる。
少女の指先が、スカートの上で握りしめられている。
「……存じております」
彼女は小さく言った。
「若様が、本来の若様ではないこと」
やはり。
俺は息を吐く。
「誰が、俺をここに呼んだ」
「奥様でございます」
奥様。
つまり、この体の母親。
「どうやって」
「……それにつきましては、お話しできません。奥様から、直接お聞きください」
固く口を閉ざす。
命令には従う。それが彼女に叩き込まれた在り方なのだろう。
俺はそれ以上追及しなかった。
ベッドから降りる。
足がふらつく。この体は長い間寝ていたらしい。筋肉が落ちている。
「若様、無理は――」
「鏡はどこだ」
シエンヌは部屋の中程を指差した。
俺はよろよろと歩き、姿見の前に立つ。
映っていたのは、銀色の髪をした少年だった。
五つか六つ。やせていて、顔色が悪い。だが、整った顔立ちだ。目の色は、薄い紫。珍しい色らしい。
これが、俺の新しい体。
カエルム・フォン・アッシュフォード。
俺は鏡の中の自分を見つめる。
前世の俺は、もっと平凡な顔をしていた。どこにでもいるような、三十前の男。
今は、子供。
しかも、死んだはずの子供。
「……不思議なものだな」
呟きが漏れる。
シエンヌが後ろに立っている。鏡に映る彼女の表情は、やはり緊張している。
「シエンヌ」
「はい」
「お前には名字がないのか」
彼女は一瞬、戸惑った。
それから、当たり前のように答える。
「はい。専属使用人には、名字がございません」
「なぜだ」
「……さようなものは、不要だからでございます」
不要。
俺は鏡越しに彼女を見る。
名字が不要ということは、家族がいないということだ。血縁の紐帯がない。守ってくれる人間がいない。
彼女は、誰のものでもない。
いや、誰かのもの、として扱われている。
「不要ではないだろう」
俺がそう言うと、シエンヌはきょとんとした顔をした。
「……え?」
「名字がないということは、お前がどこから来たのか、誰の娘なのかがわからなくなるということだ。それは不要なんかじゃない」
「……」
彼女は黙り込んだ。
答えに困っているのではない。
こういう会話を、されたことがないのだ。
使用人は道具だ。道具に名字は不要だ。そういう理屈で、この世界は動いている。
俺は前世で、人間として扱われなかった。
冤罪で捕らえられ、番号で呼ばれ、独房に放り込まれた。
だからわかる。
名前を奪われることが、どれだけ人間を傷つけるか。
「教えてくれ」
「……何を、でしょうか」
「お前のことを。名前以外のことを」
シエンヌはまた、戸惑った。
使用人のことを聞かれる。それも、仕える相手から。
そんな経験は、なかったのだろう。
「……わたくしは、六歳の時にこの屋敷に参りました。それ以前のことは、よく覚えておりません。以来、若様のお侧に仕えるよう、教育を受けて参りました」
「家族は?」
「……おりません」
「いたのか?」
「…………わかりません」
わからない、ということは、いたのかもしれな
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いが、覚えていない、ということだ。
六歳以前のことを覚えていない。それだけ幼い頃に、ここに来た。
いや、連れて来られた。
俺は深呼吸をする。
怒りを覚える。だが、今はそれを押し殺す。
怒っても仕方ない。この世界はそういうものだ。
変えるなら、力をつけてからだ。
「わかった。ありがとう、シエンヌ」
「……」
彼女はまた、不思議そうな顔をした。
礼を言われることが、ないのだろう。
ドアを叩く音がする。
シエンヌがはっとして、ドアの方を見る。
「失礼いたします」
入ってきたのは、中年の女性だった。黒い服を着ているが、メイド服ではない。もっと格式の高い衣装。
「シエンヌ、若様のご様子は?」
「はい、お目覚めになられました」
女性は俺を見て、目を大きく見開いた。
それから、急いで跪く。
「若様……! よくぞ、お目覚めに……!」
声は震えている。
彼女は本気で喜んでいるようだ。
「あなたは?」
「屋敷の使用人頭をしております、マルタと申します。若様、お体のご具合は?」
「動けばふらつくが、他は大丈夫だ」
「さようでございますか……奥様に、すぐにお伝えいたします!」
マルタは部屋を出ていった。
残された俺とシエンヌ。
シエンヌは、どこか複雑そうな顔をしている。
「シエンヌ」
「はい」
「『奥様』というのは、俺の母親か?」
「はい。セラフィーヌ・フォン・アッシュフォード様でございます」
セラフィーヌ。
俺をこの体に呼んだ張本人。
会わなければな。
「シエンヌ、もう一つ聞いていいか」
「はい」
「俺の、本来の体は?」
彼女は下を向いた。
「……お庭の、奥の方にございます」
お庭の奥。
墓だ。
この体は、死んで、埋められた。
そして、俺が代わりにここにいる。
俺は目を閉じる。
知らない子供だ。だが、この体を借りている以上、その子のことは忘れないでおこう。
「シエンヌ」
「はい」
「俺は、お前に命令する」
「はい、若様」
「これからは、俺の前では跪くな。立っていろ」
「……え?」
「それと、俺に敬語を使わなくていい。普通に話せ」
「そ、それは……使用人として、そのようなことは――」
「命令だ」
シエンヌは口をぱくぱくとさせた。
彼女の常識では、ありえないことなのだろう。
だが、俺は彼女を道具として扱う気はない。
彼女は俺の最初の同盟者だ。
そして、おそらく、これから長い時間を共にする相手になる。
「……わかりました」
彼女は小さく頷いた。
まだ困惑が抜けない顔。だが、命令には従う。
俺は小さく笑った。
初めての、新しい世界での笑い。
廊下から、足音が聞こえる。
一つではない。複数の足音。そして、その中の一つは、他とは違う。
圧倒的な存在感。
ドアが開く。
入ってきたのは、一人の女性だった。
銀色の髪。紫の目。俺とよく似た顔立ち。だが、その雰囲気は全く違う。
冷徹。威厳。そして、底知れぬ強さ。
セラフィーヌ・フォン・アッシュフォード。
アッシュフォード公爵家の当主。
そして、俺をこの世界に呼んだ女。
「――起きたようね」
彼女は俺を見下ろした。
その目に、愛情はない。
あるのは、計算と、そして微かな安堵だけ。
「はじめまして、カエルム」
彼女は言った。
「……いいえ、違うわね。あなたはカエルムではない」
俺は彼女を見返す。
この女は、知っている。
俺が何者かを。
「――はじめまして、奥様」
俺はベッドから降り、立った。
足は震えているが、姿勢は崩さない。
前世で、独房で七年間耐えた。
威圧ごときで屈するわけがない。
「私は、あなたが呼んだ魂です」
セラフィーヌの目が、わずかに見開かれた。
それから、彼女は小さく笑った。
「……面白い子ね」
それは、褒め言葉ではなかった。
だが、貶してもいなかった。
ただ、評価していた。
これから始まる、俺とこの女の関係を。




