第1章 絞首台の下の闇
俺は死ぬはずだった。
いや、死ぬことは確定していた。七年前から。
「受刑者番号〇七三二、起立」
冷たい声が独房に響く。
七年間、このコンクリートの箱の中で過ごした。太陽の光は一日三十分、運動時間だけ。それ以外は、灰色の壁と鉄格子と、自分の思考だけ。
俺は冤罪で捕まった。
証拠は捏造され、真犯人は権力者に守られ、俺は七年間の独房生活の末に絞首台へ送られる。
弁護士は最後まで戦ってくれた。だが、権力の前には無力だった。
「――以上、執行を命ずる」
立ち会い人の声が遠い。
俺はロープの下に立つ。
足元の板が開く。
落下。
首が締まる。
視界が暗転する。
――そして、俺は死んだ。
暗闇。
どれくらいの時間が経ったのかはわからない。
一秒かもしれない。一世紀かもしれない。
ただ、暗い。
寒い。
いや、違う。
暖かい。
何か、柔らかいものに包まれている。
感覚が戻ってくる。
まず、音。
小さな声。女の人の声。聞き慣れない言葉だが、なぜか意味がわかる。
「――シエンヌ、様子を見て」
それから、光。
まぶたの裏が赤い。光が透けている。
目を開ける。
視界がぼやけている。ピントが合わない。
天井。高い。石造り。豪華な装飾。
どこだ?
絞首台の下ではなかった。
体を持ち上げようとする。
動かない。
いや、動く。だが、思った通りに動かない。
腕を見る。
小さい。
白い。細い。子供の腕。
「……は?」
声が出る。だが、それは俺の声ではない。高い、幼い声。
混乱が襲う。
俺は死んだはずだ。絞首台で。首を吊られて。
それなのに、なぜ。
どこだここは。
この体は何だ。
記憶は鮮明だ。冤罪。独房。七年。処刑。
全部覚えている。
だが、この体は俺の体ではない。
「若様、お目覚めですか」
声がする。
顔を向ける。首が思うように動かない。やっとのことで視界の端に捉えたのは、少女だった。
十歳前後か。銀色の髪を後ろでひとつに結っている。青い目。整った顔立ちだが、どこか怯えたような、緊張したような表情。
黒いメイド服のような衣装。
彼女は俺の前に跪いている。
「若様」
少女は俺をそう呼んだ。
若様。
日本語ではない。だが、理解できる。
この体が持っている言語が、自動的に翻訳しているような感覚。
「あなたは……」
俺が声を発すると、少女ははっと目を見開いた。
「若様、お言葉を? あの、わたくしはシエンヌと申します。若様の専属使用人でございます」
シエンヌ。
専属使用人。
俺は首を傾げる。この体は、思うように動かない。だが、脳ははっきりしている。
状況整理。
俺は死んだ。だが生きている。
この体は子供。五歳か六歳程度。
豪華な部屋。石造りの壁。高価そうな調度品。
そして、メイド服の少女。
これは、いわゆる異世界転生というやつか。
ネット小説でよく見るあれ。
俺は処刑される前、独房で小説を読んでいた。弁護士が差し入れてくれた本の中に、そういうジャンルのものもあった。
現実離れした話だと思っていた。
だが、今、自分がその中にいる。
「若様、大丈夫ですか? 顔色が……」
シエンヌが心配そうに覗き込んでくる。
俺は冷静さを保とうとする。
パニックになっても仕方ない。死んだ人間が生き返ったのだ。何が起きてもおかしくはない。
「……ここはどこだ」
俺が尋ねると、シエンヌはきょとんとしてから、答えた。
「アッシュフォード公爵家の本邸でございます。若様のお部屋です」
アッシュフォード公爵家。
公爵。
つまり、貴族。
俺は貴族の子供として生まれ変わったのか。
「俺は……何という名前だ」
また、きょとんとした顔。
「カエルム・フォン・アッシュフォード様でございます」
カエルム。
それが、俺の新しい名前らしい。
俺は深呼吸をする。小さな肺が、必死に空気を吸い込む。
わからないことだらけだ。
なぜ俺がここにいるのか。
この体の本来の持ち主はどこへ行ったのか。
そして、なぜこの少女は、こんなにも緊張しているのか。
「シエンヌ」
「はい、若様」
「俺は、どうしてここにいる?」
彼女の表情が、一瞬だけ歪んだ。
何かを隠している。
「……若様は、少しの間、お休みになっていらっしゃいました」
「お休み?」
「はい。お熱を出されまして……ですが、もう大丈夫です。お目覚めになられて、本当に……本当に」
彼女はそこで言葉を切った。
目頭を押さえている。
泣いているのか?
いや、違う。
彼女は泣いてなどいない。表情をコントロールしている。だが、指先が微かに震えている。
この少女は、何かを知っている。
俺が「カエルム」ではないことを。
あるいは、本来のカエルムがもういないことを。
「シエンヌ」
「はい」
「俺は、死んだのか?」
少女の体が、こわばった。
沈黙。
長い沈黙。
それから、彼女は小さな声で答えた。
「……はい」
俺は目を閉じる。
やはり、そうか。
この体の本来の持ち主は、死んだ。
そして、俺が代わりにここにいる。
なぜ。
誰が。
何のために。
答えは、まだわからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺は生きている。
二度目の人生を、生きている。
前世で、俺は無力だった。
冤罪を晴らせず、権力に踏みにじられ、絞首台で死んだ。
だが、今度は違う。
今度は、俺は踏みにじられる側ではない。
俺は、踏みにじる側になる。
いや、違う。
それでは、俺を殺した連中と同じだ。
俺は、踏みにじられない側になる。
誰にも、二度と。
「シエンヌ」
「はい、若様」
「教えてくれ。この世界の全てを」
少女は俺を見つめる。
その青い目に、戸惑いと、そして微かな光が見えた。
「……はい。わたくしでよろしければ、何でも」
俺は小さく頷いた。
新しい人生が、始まる。




