第4章 沈黙の共犯者
セラフィーヌが去った後、部屋には重い静寂が戻ってきた。
シエンヌはまだ突っ立っている。
跪くことを禁じられた彼女は、どこに手を置いていいかわからないようだ。使用人として厳しく躾けられた体は、主人の前で直立することを許されていない。
「シエンヌ、そこのソファに座れ」
「……えっ」
「命令だ。座って休め。これからの話を聞くには、立っているより座っている方がいい」
彼女は戸惑いながらも、ゆっくりとソファの端に腰掛けた。
まるに爆弾の上に座っているような、落ち着かない座り方だ。
俺はベッドに仰向けになり、天井を見つめる。
セラフィーヌ・フォン・アッシュフォード。
彼女にとって、俺は家を保つための『部品』だ。感情などない。あるのは計算と、公爵家当主としての冷徹な責任感だけ。
それは理解できる。俺もまた、彼女を道具として見るからだ。
だが、問題はその次だ。
エドモンド。
この体の、本来の父親。
『彼を傷つけないで』
セラフィーヌの言葉が頭をよぎる。
彼女は俺を駒として扱ったが、夫のことには感情を見せた。あの女にも、人としての心は残っているらしい。
ノックの音がした。
マルタの敲门とは違う。少し躊躇ったような、重く、そして脆い音。
「……どうぞ」
ドアがゆっくりと開く。
入ってきたのは、一人の男だった。
三十代半ばといったところか。穏やかな顔立ちだが、どこか深く疲弊している。
髪は柔らかな茶色で、俺の銀髪とは違う。目も、穏やかな琥珀色だ。
貴族というよりは、学者か、あるいはどこかの穏やかな田舎領主のような雰囲気を持っている。
エドモンド。
アッシュフォード公爵家の『婿』。権力を持たない男。
彼はドアのすぐそばで立ち止まり、俺を見つめた。
その琥珀色の瞳が、微かに震えている。
「……カエルム」
嗄れた声が漏れた。
俺はベッドから降り、直立する。五歳の子供として、どのように振る舞うのが正解か。前世の記憶を総動員して、答えを出す。
「……お父様」
エドモンドの肩が、びくりと跳ね上がった。
彼はゆっくりと、まるで壊れ物を扱うような足取りで俺に近づく。そして、俺の目の高さに合わせるように、片膝をついた。
近い。
彼の顔には、隠しきれない悲しみと、そして某种の『覚悟』のようなものが張り付いている。
震える手が、俺の頬に伸ばされる。
俺は逃げたい衝動を殺した。
独房で七年間、看守や取り調べ官の突然の動作に耐え続けた。ここで顔を背ければ、この男は気づく。
冷たい指先が、俺の頬を撫でる。
「……熱は、もう下がったのか」
「はい。もう大丈夫です」
「……そうか。よかった……本当に、よかった」
彼はそう言いながら、俺の目をじっと見つめた。
紫の瞳と、琥珀の瞳が交差する。
彼は、何を探しているのだ?
愛する息子の面影か。それとも、息子がもうここにはいないという『証拠』か。
次の瞬間、エドモンドは俺を強く抱きしめた。
「っ――」
息が詰まる。
彼の腕は震え、そして俺の背中に回された手は、しがみつくように力を込めていた。
俺の肩口に、熱いものが落ちる。
泣いている。
声を殺して、男は泣いている。
俺は腕をどうしていいかわからず、ただ彼の背中に手を添えることしかできなかった。
他人の息子の体を借りて、その父親の涙を受け止めている。
この世界の理不尽さが、胸の奥を締め上げた。
それから、エドモンドは俺の耳元で、极低い声で呟いた。
シエンヌにも、ドアの外にいるであろう使用人にも聞こえない、俺だけのための言葉。
「……お前が誰だろうと、構わない」
俺の心臓が、一拍飛んだ。
「カエルムの器を使っているのが、どこの誰であろうと……俺は問わない」
わかっている。
この男は、全てわかっているのだ。
息子が死んだこと。そして、今抱きしめているのが、見知らぬ別の魂だということを。
だが、彼は叫ばない。糾弾しない。
権力を持たない婿養子である彼は、妻が決めた『禁術』を止めることなどできなかった。ただ、神に祈り、そして現実を受け入れるしかなかったのだ。
「……ただ、頼む」
彼の声が、涙で濡れて震える。
「この家を守ってくれ。……私の妻を、セラフィーヌを守ってくれ」
「……」
「カエルムは……俺の最愛の息子だった。だが、お前がこれから生きる命も、また俺の子供だ。……どうか、生きていてくれ」
俺は目を閉じた。
冤罪で死刑になった俺は、人間として扱われなかった。
だが、この男は違う。
息子の体を乗っ取った正体不明の怪物に対し、彼は憎悪ではなく、『祈り』を捧げた。
俺は、小さく、だが確かに頷いた。
「……ああ。約束する」
エドモンドは俺を離し、涙を拭うと、穏やかな――しかし、どこか哀しげな微笑みを浮かべた。
「ゆっくり休むんだ、カエルム」
彼は立ち上がり、部屋を出ていった。
ドアが閉まる音だけが、静かに響く。
俺はベッドに座り込み、深く息を吐いた。
背中に、冷や汗が滲んでいる。
「……若様」
シエンヌがソファから立ち上がり、心配そうに俺を見ていた。
「大丈夫だ、シエンヌ」
俺は自分の手を見つめる。
小さい、白い手。
セラフィーヌとは『契約』を結んだ。
エドモンドとは『沈黙の共犯者』となった。
この公爵家という巨大な檻の中で、俺はすでに二つの鎖を巻きつけられた。
だが、それは俺を縛るための鎖ではない。
俺が、この家を支えるための鎖だ。
「シエンヌ」
「はい」
「明日から、勉強を始める。この国の歴史、法律、そして魔法の基礎だ」
「……わかりました。わたくしが用意いたします」
「それと」
俺は彼女を見上げ、静かに言った。
「お前も一緒に学べ」
シエンヌは目を丸くした。
「わ、わたくしが……ですか? ですが、使用人に学問など――」
「俺がやれと言っている」
俺は立ち上がり、窓の外に広がる広大な庭園を見下ろす。
庭の奥には、本来のカエルムが眠っているのだろう。
「これから俺たちは、たくさんの敵を作る。貴族社会の連中は、笑顔で毒を盛ってくる。その時、字も読めない、計算もできないでは、俺の背中を預けられない」
俺は振り返り、シエンヌの青い瞳を見つめた。
「お前は俺の駒じゃない。俺の『半身』だ。だから、強くなれ」
シエンヌの唇が、微かに震えた。
彼女はこみ上げるものを必死に飲み込み、それから、俺が禁じたはずの『跪き』をしようとした。
「シエンヌ」
「……あ、す、すみません……!」
彼女はハッとして、膝を伸ばす。
だが、その瞳には、今までなかった光が宿っていた。
従うための光ではない。
自ら、前に進むための光。
「……かしこまりました。若様。わたくし、学びます」
俺は小さく笑った。
新しい世界での、二日目の夜。
俺は、カエルム・フォン・アッシュフォードとして、一歩を踏み出した。




