第21話 取り戻した声
手術から、しばらく経った。
「……よし。もう包帯を外していいだろう」
薬玄の言葉に、ミレイユは目を見開いた。
イリシアたちも、その場で息をのむ。
「本当ですの?」
「ああ」
薬玄は頷いた。
「傷の状態は順調だ。ここまで来れば、もう包帯で覆っておく必要はない」
ゆっくりとミレイユの首に巻かれていた白い包帯が1巻、1巻、外されていく。
そして最後の包帯が外れた。
「……!」
イリシアが目を見開く。
そこにあったのは、かつて何度も傷つけられたとは思えないほど、綺麗になった首元だった。
僅かに薄い跡が残っているけれど、あれほど酷かった傷跡は、ほとんど消えていた。
「……綺麗になってる……」
ミーナが思わず呟く。
ミレイユ自身も、自分の首へそっと触れる。
そこにあるはずだった幾つもの痛々しい傷後は、もうほとんどない。
指先で確かめるたび、胸の奥に張りつめていたものが、少しずつほどけていく。
「……」
ミレイユの目に涙が浮かんだ。
薬玄はそんな彼女を見ながら、淡々と告げる。
「ただし、ここからが本番だ。傷が塞がったからといって、すぐ声が出るわけじゃない」
薬玄は人差し指と中指を立てる。
その二本の指先に、淡い妖術の光が灯った。
「声帯と、その周囲の状態を確認する」
光がミレイユの喉へ近づき、触れるか触れないかの絶妙な距離で診察する。
それでも、淡い光が皮膚の奥へ浸透していくように、喉の内部を映し出していく。
「……ふむ」
薬玄の目が細くなる。
「皮下組織……問題なし。縫合した部分も、しっかり結合している。声帯も問題ない」
ミレイユの瞳が揺れた。
「ちゃんと動く状態になっている」
イリシアが胸元を押さえる。
「では……」
「ああ」
薬玄は頷いた。
「今日から、声のリハビリを始める」
ミレイユの目が大きく開いた。
◇
「まずは、息を出せ」
薬玄が言う。
「声を出そうとするな。まずは呼吸だけだ」
ミレイユは頷き、ゆっくり息を吸う。
胸ではなく、腹の奥まで空気を入れるように意識する。
「───」
細く、長く吐く。
もう一度。
吸って、吐く。
何度か繰り返す。
薬玄は妖術の光を纏わせた指を喉元へ近づけ、内部の動きを確認していく。
「動きに問題ない。次は、ほんの少しだけ声を乗せろ」
ミレイユが緊張しながら唇を開く。
「……」
音にならない。
息だけが喉を通り抜ける。
ミレイユは眉を寄せ、もう一度声を出そうとする。
すると、喉の奥がきゅっと締まるような感覚がした。
「無理に出すな」
薬玄がすぐに言う。
「喉に力を入れすぎだ。出なくても構わない。声を押し出すんじゃなく、息の上に音を乗せるだけでいい」
ミレイユは肩の力を抜く。
もう一度、息を吸う。
そして……
「……ぁ」
「!」
イリシアの目が見開かれた。
ほんの僅かな掠れた音。
風が漏れるような、頼りない音。
それでも確かに、声だった。
「……今」
ミーナが口元を押さえる。
「今、声……」
ミレイユ自身も驚いたように目を見開いている。
自分の喉へ手を当てる。
指先に伝わるのは、ほんの小さな震えだった。
もう一度、出してみたい。
そう思って唇を開きかけるけれど、薬玄が静かに手を上げた。
「今日はそれで十分だ」
ミレイユが名残惜しそうに薬玄を見る。
「続ければ、もっと出せると思うかもしれない。だが、今は声帯を慣らす段階だ」
薬玄が妖術で喉の状態を確認する。
「腫れも悪化していない。問題ない」
そして、ほんの僅かに目元を和らげた。
「よくやった」
その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの目から、ぽろりと涙が落ちた。
声が出たことが嬉しいのか、ここまで来られたことが嬉しいのか、自分でももう分からなかった。
ただ、イリシアがそっと背中に手を添え、ミーナが何度も頷いているのが見えた。
「……すごいですよ、ミレイユさん」
ミーナの声も、少し震えていた。
ミレイユは涙を拭いながら、もう一度だけ喉に触れた。
そこには、確かに声が宿ってた。
◇
1日目。
練習は、短い母音だけだった。
まずは呼吸。
鼻からゆっくり吸い、口から細く吐く。
次に、息だけを一定の強さで出す。
そのあとで、ほんの一瞬だけ声を重ねる。
「あ……」
「……う」
声は小さい。
音の始まりが掠れ、途中で途切れる。
何度か繰り返すと、喉の奥が乾いて、少し熱を持つような感覚があった。
ミレイユは不安そうに喉へ触れる。
「痛むか?」
薬玄が尋ねると、ミレイユは首を横に振る。
「なら問題ない。ただし、違和感が強くなったらすぐ止めろ」
薬玄は無理をさせなかった。
「今日はここまでだ」
ミレイユは頷くが、その顔は嬉しそうだった。
自分の喉から確かに音が生まれた、それだけで十分だった。
イリシアはそんなミレイユを見つめながら、何度も口を開きかけた。
けれど、かける言葉が見つからない。
大丈夫。
よかったですわ。
頑張りましたわね。
どれも本心だった。
それでも、今はただ、ミレイユが自分の声を確かめる時間を邪魔したくなかった。
だから最後に、そっと手を握るだけにした。
ミレイユはそれに気づきその手を握り返した。
2日目。
最初に昨日と同じ呼吸練習を行った。
昨日よりも息が安定している。
薬玄はそれを確認してから、母音を少しずつ変えていく。
まだ一音ずつ。
長く伸ばそうとすると、途中で声が細くなる。
それでも昨日より、音の輪郭がはっきりしていた。
「……あ」
「……い」
少しだけ音が安定する。
ミレイユは声を出すたび、自分の喉に指を当てていた。
声が出る瞬間だけ、皮膚の下で小さな振動が起こる。
その感覚がとても嬉しかった。
妖術の光を使って、薬玄は声帯の動きを確認する。
「昨日より振動が安定しています」
翠翔が記録を書く。
「声帯の閉じ方も、少しずつ揃ってきています」
「そうだな」
師匠と弟子、二人が同じように記録を取る。
「ただ、まだ力みが強いな」
薬玄がミレイユを見る。
「声を出そうとすると、喉で押し出そうとしている」
ミレイユは少し困った顔をする。
「もっと息を先に流せ。声は後からついてくる」
ミレイユは頷きもう一度、息を吐く。
その途中に、そっと音を重ねる。
「……あ」
「うん、今の方がいい。焦る必要はない、少しずつでいい」
ミレイユは頷いた。
その言葉を聞いて、イリシアは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
ミレイユは、声を取り戻そうとしている。
けれど、取り戻すことを急ぐあまり、また自分を傷つけてしまうかもしれない。
だからこそ、隣にいる自分たちが、焦らなくていいと何度でも伝えなければならなかった。
3日目。
この日は、母音を繋げる練習から始まった。
「あ……い」
「……う……あ」
まだぎこちないけれど、一音ずつなら出せるようになってきた。
薬玄は次の課題を告げる。
「今日は、声を出しながら口の形を変えてみろ、そうだな、自分の名前を練習にするか」
ミレイユは頷く。
「……ミ」
初めて自分の名前の一部が出た。
ミレイユ自身が驚いて目を見開く。
「ミ……」
喉の奥に少し引っかかる、そこで一度息を整える。
「……ミレ……」
声はまだか細いけれど、昨日までの単なる音とは違う。
意味のある音になっていた。
「……ミレ、イユ」
小さな小さな声。
だけど確かに、自分の名前だった。
誰もすぐには声を上げられなかった。
その一言が消えてしまわないように、皆が息を潜めている。
ミレイユは不安そうに仲間たちを見る。
聞こえただろうか。
ちゃんと、届いただろうか。
「ミレイユさん……!」
ミーナがようやく声を絞り出す。
その目には、もう涙が浮かんでいた。
「聞こえましたわ」
イリシアも微笑む。
「ちゃんと、あなたのお名前でした」
ヴィクトルは静かに頷き。
ジュリアンは拳を握った。
「……やったな」
ルークも、短く言った。
「……ちゃんと声になってる」
ミレイユは皆を見て、泣きながら笑った。
そのあと、少しだけ喉を休ませる。
薬玄が妖術で確認すると、声帯に大きな異常はない。
「今日はここまでだ」
ミレイユは頷く。
もっと話したい、もっと声を聞かせたい。
けれど今は我慢。
声を取り戻すために焦らないことも、リハビリの一部だった。
4日目。
この日は、短い言葉を作る練習に入った。
まずは「おはよう」。
ミレイユは何度か口の形だけを確認する。
そしてゆっくりと息を吸う。
「お……ぁ……」
途中で声が途切れる、ミレイユは悔しそうに眉を下げる。
「一度に全部出そうとするな」
薬玄が言う。
「言葉を小さく区切っていい」
ミレイユは頷く、もう一度。
「おは……よう……」
今度は最後まで届いた。
まだ掠れているが確実に出ている。
「おは、よう……ござ、い、ます」
かすかな声。
まだ小さいけれど言葉としてちゃんと聞き取れる。
ミーナが一瞬、返事を忘れた。
たった一言なのに、胸の奥がいっぱいになった。
「お、おはようございます!」
慌てて返すと、ミレイユは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、イリシアも微笑む。
「とても綺麗に聞こえましたわ」
ミレイユは照れたように喉へ手を当てる。
まだ少し疲れる長く話すと、喉の奥が乾いて、声が細くなっていく。
だから薬玄は、短い言葉を一つ言うたびに休ませた。
筆談帳を使わずに声だけで意思を伝えられた。
その事実が、何より嬉しかった。
けれど、皆はそれ以上を求めなかった。
もっと話して、とも。
もう一度聞かせて、とも言わなかった。
ミレイユが自分から声を出したいと思えるまで、ただ静かに待った。
◇
そして5日目。
「今日は少し長めの発声を試す」
薬玄が言った。
妖術の光を指先に纏わせる。
「ただし、昨日までとは違う」
ミレイユが顔を上げる。
「今日は言葉を繋げる。短い文章でいい」
薬玄はミレイユの喉を確認する。
「声帯の動きは安定している。だが、まだ長時間の発声には耐えられない。無理はするな」
薬玄の優しい声音に、ミレイユは頷く。
「言いたいことがあるなら、ゆっくりでいい」
その言葉に、ミレイユはしばらく黙っていた。
言いたいことなら、たくさんあった。
声が出なかった間、何度も心の中で繰り返していた言葉がある。
助けてくれてありがとう。
そばにいてくれてありがとう。
怖いとき、手を握ってくれてありがとう。
でも、それを今、声にしてしまったら。
途中で途切れてしまったら。
うまく伝わらなかったら。
ミレイユは膝の上で指を握りしめる。
すると、イリシアがその手にそっと触れた。
「急がなくて大丈夫ですわ」
ミレイユが顔を上げる。
「言葉にならなくても、わたくしたちは分かっています」
ミーナも頷いた。
「うん。無理に話さなくても、ここにいますから」
その言葉に、ミレイユの指から少しだけ力が抜けた。
薬玄も何も急かさなかった。
ただ、喉の状態を確認しながら、静かに待っている。
ミレイユは皆を見る。
イリシア、ヴィクトル、ジュリアン、ルーク、ミーナ。
そして、薬玄と翠翔。
自分を助けてくれた人たち。
ずっと、ずっと言いたかった。
伝えたかった言葉。
ミレイユはゆっくりと息を吸う。
少しだけ喉が震えた。
「……み、んな……」
小さな声、少し掠れている。
それでも確かな言葉だった。
全員が息を呑む。
ミレイユは一度、目を伏せた。
ここで止めてもいい、薬玄はそう言っていた。
皆も、無理をしなくていいと言ってくれた。
それでも今なら伝えられる気がした。
「……ありが、とう……」
その言葉が落ちた瞬間。
誰も、すぐには動けなかった。
あまりにも待ち望んでいた言葉だった。
ミレイユが初めて、自分の声で皆に向けてくれた言葉だった。
イリシアの目から、静かに涙が溢れる。
ミーナは口元を押さえたまま、何度も頷いた。
ジュリアンは顔を背け、ヴィクトルは目を細める。
ルークも、いつもの無表情を僅かに崩していた。
ミレイユは不安そうに皆を見る。
届いただろうか。
ちゃんと、伝わっただろうか。
イリシアが涙を拭いながら、微笑んだ。
「……はい」
それだけ答えるのが精一杯だった。
ミレイユも込み上げる涙をぐっと堪えもう一度、息を吸う。
「……ありがとう」
今度は、先ほどより少しだけはっきりしていた。
声を重ねるたび、喉の奥が震える。
怖い。
けれど、それ以上に、伝えたい気持ちが強かった。
「たす、けて……くれて……」
途中で息が足りなくなり、ミレイユは一度口を閉じる。
薬玄が小さく頷く。
焦らなくていい。
その頷きに背中を押されるように、ミレイユはもう一度息を吸う。
「……ありが、とう……」
涙が頬を伝う。
イリシアは堪えきれず、ミレイユの手を握った。
「こちらこそ……」
声が震える。
「戻ってきてくださって……本当に、ありがとうございます……」
ミレイユは首を横に振る。
違う。
自分が戻ってこられたのは、皆が手を伸ばしてくれたからだ。
その気持ちを伝えようと、ミレイユはイリシアを見つめる。
「……イリ、シア、さ……」
「はい」
イリシアは涙を浮かべたまま、ミレイユの声を待った。
「……だい、すき……」
「……っ」
イリシアはとうとう泣き出した。
「わたくしも……!」
ミレイユの体を両手で包む。
「わたくしも、大好きですわ……!」
その声を聞いて、ミレイユの表情がゆっくりとほどけていく。
ヴィクトルも笑っていた。
「本当に、よかった」
ジュリアンが目元を拭う。
「……ったく。泣かせやがって」
「ジュリアンさんも泣いてる!」
ミーナがすかさず言う。
「泣いてねぇよ、これは汗だ!」
「目から!?」
ミーナの言葉に、病室に小さな笑い声が広がる。
ミレイユも、涙を残したまま笑った。
喉の奥からかすかな息が漏れる。
その音を聞いて、皆がまた笑った。
ルークは少し離れた場所で、静かに微笑んでいた。
薬玄はそんな光景を眺めている。
しばらくして、ミレイユの喉の状態を確認した。
「……よくやったな」
ミレイユが顔を上げると、薬玄は優しく微笑んで言う。
「まだ治療は終わっていない。声もまだ完全じゃないが、無理をすれば傷める」
ミレイユはこくりと頷く。
「今日みたいに長く話したあとは、しばらく声を休ませろ。喉が乾いたり、掠れが強くなったりしたら、それも合図だ」
ミレイユは真剣に頷く。
薬玄は、彼女がまだ話したそうにしているのに気づいた。
「今日はもう、これ以上は話すな」
ミレイユは少しだけ残念そうに眉を下げる。
「明日も話せる。だから、今日は喉を守れ」
ミレイユはその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
声を取り戻すことは、声を使い切ることではない。
これから先も話すために、今は休む。
それもまた、声を取り戻していくための一歩だった。
薬玄は僅かに笑った。
「だが、ここまで戻ったなら、あとは焦らず治していけばいい」
隣にいた翠翔も嬉しそうに笑う。
「よかったですね、ミレイユさん」
ミレイユは皆を見渡した。
そして、まだ小さな声で答える。
「……はい」
その一言に、今度は誰も驚かなかった。
ただ、皆が自然に笑った。
ミレイユは、自分の声で、自分の言葉で、仲間たちへ気持ちを伝えられる。
失われたと思っていたもの。
もう二度と戻らないと思っていたもの。
それは、突然完全な形で戻ってきたわけではない。
小さな息から始まり。
震える音になり。
名前になり。
短い言葉になった。
そして今、大切な人たちへ、ありがとうと伝えられるまでになった。
その声は確かに、彼女のもとへ帰ってきた。
その小さな「声」がミレイユにとっては世界で一番大切な、
「声」だった。




