第19話 赤い薬
──ルヴァン王国。
王都にある教会。
聖女クラリッサ・エヴェレットの私室では、今日も穏やかな時間が流れていた。
「ふふ……」
クラリッサは窓辺に座り、庭を眺めながら小さく笑っている。
以前の彼女からは、想像もできないほど穏やかな表情だった。
侍女が紅茶を用意する。
「聖女様。本日のお茶はこちらでございます」
「ありがとう」
クラリッサは微笑んでカップを受け取った。
「……今日は、とても気分がいいわ」
「それは何よりでございます」
侍女もほっとしたように笑う。
最近のクラリッサは、驚くほど穏やかだった。
以前のように突然怒り出すこともない。
誰かを激しく罵ることもない。
夜中に取り乱すこともない。
──まるで別人だった。
その変化を説明したのは、バルタザール・グレゴリオ枢機卿だった。
『聖魔力が大きすぎるのだ』
彼はそう説明した。
『暴走しかけていた聖魔力が精神にまで影響を及ぼし、不安定な状態を引き起こしていたのだろう』
そして、ケースの中からひとつの小瓶を取り出す。
その中身は真っ赤な液体で満たされていた。
『定期的にこの抑制剤を投与すれば問題ありません』
最初、クラリッサは半信半疑だった。
けれど初めて薬を打ってから、驚くほど心が静かになった。
頭の中を覆っていた靄が晴れたようで、何を見ても苛立たない、誰かの言葉に過剰に反応しない、眠ることもできる、食事も美味しい。
そして何より、心が穏やかだった。
「……これが、本来の私なのね」
クラリッサはそう思った。
だから血のように赤い薬を疑う理由など、なかった。
◇
「聖女様」
部屋へ入ってきたのは、バルタザールだった。
「枢機卿様」
クラリッサは笑顔を向ける。
「今日はどうされたのですか?」
「少々、確認したいことがありましてな」
バルタザールはクラリッサの様子を観察する。
「体調はいかがですかな?」
「とても良いですわ」
「精神状態は?」
「問題ありません」
「苛立ちや不安は?」
「ありませんわ」
「睡眠は?」
「とてもよく眠れてますわ」
クラリッサは微笑む。
「最近は、とても穏やかな気持ちで過ごせています」
「それは結構」
バルタザールも満足そうに頷いた。
そして懐から小さな箱を取り出す。
蓋を開けると中に入っていたのは一本の小さな薬瓶。
その中には血液を思わせるほど鮮やかな赤い液体が入っていた。
「では、今日も投与しておきましょう」
「はい」
クラリッサは腕を差し出した。
赤い薬が注射器へ吸い上げられ、そして針が肌へ刺さった。
「……っ」
薬が身体へ入っていく。
数秒。
クラリッサは目を閉じる。
「……ふぅ」
そしてゆっくりと息を吐いた。
「やっぱり……これを打つと落ち着きます」
「そうでしょうな」
バルタザールは頷いた。
「聖魔力の暴走を抑えているのですから」
「そう……」
クラリッサは自分の腕を見る。
「この薬があるなら、私は大丈夫なのですね?」
「ええ」
バルタザールは迷いなく答えた。
「何も心配する必要はありません」
クラリッサは安心したように笑った。
◇
それから、しばらくして。
「……あら?」
クラリッサは鏡の前で首を傾げた。
最近、少しだけ薬の効果が切れるのが早い気がする。
以前なら一度投与すれば、かなり長い間穏やかな気持ちでいられた。
「……今日は、少し早いわね」
胸の奥がざわつき、理由もなく苛立つ。
頭の中が落ち着かなく、手が僅かに震える。
「……嫌」
クラリッサは自分の腕を抱く。
「嫌……」
そして机の上に置かれた赤い薬瓶を見る。
あれを打てばまた落ち着く。
「……枢機卿様」
クラリッサは侍女を呼んだ。
「はい」
「バルタザール枢機卿を呼んで」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ていく。
ほどなくしてバルタザールがやって来た。
「どうされましたかな?」
「……薬を」
「薬?」
「いつもより、落ち着かなくなってしまって……」
クラリッサは不安そうに言った。
「もう一度、打っていただけませんか?」
バルタザールは少しだけ眉を動かした。
「前回の投与から、まだそれほど経っておりませんが」
「……そうなのですか?」
「ええ」
「でも……」
クラリッサは赤い薬瓶を見る。
「これがないと、嫌なのです」
バルタザールはしばらく彼女を見つめた。
「……分かりました」
赤い薬が用意される。
再び針が刺さり、クラリッサの表情から力が抜けていく。
ざわついていた心が静かになり、震えていた手も止まった。
「……ああ」
安堵の息。
「やっぱり……これね」
クラリッサは微笑む。
「これがあれば、大丈夫」
バルタザールは何も言わなかった。
◇
さらに数日後。
「薬をください」
「聖女様、まだ前回から4日しか──」
「薬を」
クラリッサの声が強くなる。
「……分かりました」
さらに数日後。
「薬を」
「ですが……」
「薬をください!」
そしてまた数日。
「……薬を」
投与間隔は、ほんの少しずつ短くなっていった
クラリッサ自身は、それに気づいていない。
気づいていたとしても気にすることなどできなかった。
薬が切れると、不安になり落ち着かなくなる。
身体が重くなり、頭の中がざわつく。
そして赤い薬を打てば、すべてが消える。
「……大丈夫」
クラリッサは鏡の中の自分に微笑む。
「私は、大丈夫」
その背後、机の上には空になった薬瓶が、以前より増えていた。
一本、また一本。
そしてまた一本。
赤い液体だけが静かに、彼女の身体へと入り続けていた。




