第17話 6時間の手術
──そしてミレイユの治療準備が始まってから、数日が経った。
検査を終え、必要な薬剤と器具が揃えられ。
ついに、手術の日がやってきた。
「準備は整った」
瑠璃堂薬玄は、いつもの白衣姿でそう告げた。
「予定通り今日、手術を行う」
その言葉にイリシアは、ぎゅっと拳を握った。
「……よろしくお願いいたします」
「ああ」
薬玄は静かに頷く。
「時間は6時間ほどを予定している」
「6時間……」
ミーナが思わず呟く。
「そんなに……」
「長丁場になる」
薬玄は淡々と答えた。
「声帯だけを処置すれば終わり、という状態ではない。周辺組織への損傷も確認されている。慎重に進める必要があるんだ」
イリシアはミレイユを見る。
ミレイユは不安そうにしながらも、筆談帳に文字を書いた。
『大丈夫です。みんなを信じてますから』
その文字を見て、イリシアは微笑んだ。
「……はい」
そっとミレイユの手を握る。
「わたくしたちも、あなたを信じていますわ」
ヴィクトルも頷いた。
「必ず待っているよ」
ジュリアンが笑う。
「終わったら、また迎えに来るからな」
ルークも短く。
「……頑張れ」
ミーナは両手を握りしめた。
「ミレイユさん、頑張ってください!」
ミレイユは皆を見回しゆっくりと笑った。
「では、始める」
薬玄がそう告げると、ミレイユは手術室へと運ばれていった。
扉が閉まった瞬間、待合室に静寂が落ちた。
◇
手術開始から、1時間。
「……」
イリシアは本を開いていた。
神津国の城下町で見つけた、妖術について書かれた専門書。
普段なら夢中になって読み進めるところだ。
しかしページは、ずっとおなじ頁だった。
「……」
イリシアは本を見つめる。
そして、そっとページをめくった。
「……」
数秒後。前のページへ戻った。
「……」
ルークがそれを見ていた。
「お嬢」
「はい?」
「さっきから同じところ読んでるぞ」
「……」
イリシアの手が止まる。
「気のせいでは?」
「いや、気のせいじゃねぇよ」
ルークは淡々と言った。
「30分くらい前から、その辺を行ったり来たりしてるだろ」
「…………」
イリシアは本を閉じた。
「読書とは、内容を理解することが大切なのですわ」
「じゃあ今、何が書いてあった?」
「……」
「言ってみろ」
「……妖術とは、奥深いものですわ」
「読んでねぇだろ」
「読んでいますわ!!」
思わず声が大きくなる。
「……っ」
イリシアは口元を押さえた。
そして手術室を見る。
「……大丈夫ですわよね」
ルークは少しだけ表情を和らげた。
「ああ」
「……」
「信じて待つのも役目だ」
「……はい」
イリシアは小さく頷いた。
◇
手術開始から2時間。
「……」
ヴィクトルも本を開いていた。
こちらは戦術書。
普段なら一度読み始めれば、周囲の状況すら忘れるほど集中する──はずなのだが。
「王子サマよぉ……」
ルークが声をかける。
「……なんだい?」
「その本」
「ああ」
「時間前から同じページだけど?」
「……」
ヴィクトルは手元を見る。
確かにそこには1時間前とまったく同じ挿絵が載っている。
「……確かにね」
「確かにね、じゃねぇだろ」
ジュリアンが思わず笑い出す
「殿下まで、似た者同士ですね」
「仕方ないだろう」
ヴィクトルは苦笑した。
「ミレイユ嬢のことが気になってしまってね」
「まあ……そうですわね、わたくしも同じですもの」
するとミーナが突然。
「じゃあ!」
イリシアの後ろへ回り込んだ。
「お嬢様!髪いじっていい?」
「……え?」
「暇なんですもん!」
「ええ……?」
ミーナはすでにイリシアの髪を手に取っていた。
「まずは三つ編み!」
「ミーナ?」
「はい、完成!」
イリシアの長い髪が綺麗に編み込まれる。
「……」
ヴィクトルが見る。
「似合ってるよ」
「ありがとうございます……?」
「次!」
「え?」
ミーナは三つ編みをほどく。
「今度はハーフアップ!」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「大丈夫大丈夫!」
「わたくしは人形ではありませんわよ?」
「知ってますよー!」
数分後。
「できた!」
ハーフアップ。
「次は?」
「ポニーテール!」
「まだやるのですか?」
「暇なんだもん」
「ミーナ……」
ジュリアンが苦笑する。
「お前、完全にイリシア嬢で遊んでるだろ」
「だって何もできないんだもん!」
「……まあ、それはそうだな」
ジュリアンも手術室を見る。
扉は閉ざされたまま中の様子は分からない。
だからこそ誰もが、何かをして気を紛らわせていた。
「……」
イリシアもそれを理解していた。
ミーナが髪をいじっているのも、ヴィクトルが戦術書を開いているのも、ルークが皆を観察しているのも、ジュリアンがくだらない会話を続けているのも。
──みんな、不安なのだ。
「……そうですわよね」
イリシアがぽつりと言った。
「ミーナ」
「なんですか?」
「髪……好きにしてくださいな」
「ほんと!?」
「ええ」
イリシアは笑う。
「わたくしも、何かしていたほうが落ち着きますもの」
「じゃあ次は──」
「ほどほどにしてくださいね?」
「はーい!」
待合室に、ほんの少しだけ笑顔が戻った。
◇
時計の針が進む。
それでも手術室の扉は開かない。
イリシアもヴィクトルもジュリアンもルークもミーナもやっていたことを止め、全員が、ただ扉を見つめていた。
「……あと少し、でしょうか」
ミーナが呟く。
「予定では6時間だからな」
ルークが答える。
その直後、カチャ。手術室の扉が開いた。
全員が一斉に立ち上がる。
出てきたのは薬玄だった。
白衣には僅かな血痕しかし、その表情は落ち着いている。
「……瑠璃堂様!」
イリシアが駆け寄る。
「ミレイユ様は!?」
「手術は終わった」
「……!」
イリシアの目が潤む。
「成功……したのですか?」
「ああ、問題なく終わった」
「……っ」
イリシアは胸元を押さえた。
張り詰めていたものが、一気にほどける。
「よかった……」
ヴィクトルも深く息を吐いた。
「本当に……よかった」
「今は麻酔から目を覚ましたところだ」
薬玄が言う。
「会ってやってくれ」
「はい!」
イリシアは頷いた。
◇
病室。
そこには、静かに横たわるミレイユがいた。
まだ麻酔が残っているのだろう、目は半分ほどしか開いていない。
「……ミレイユ様」
イリシアがそっと声をかけると、ミレイユの瞳がゆっくり動く。
そしてイリシアたちを見つけると、ほんの僅かに笑った。
「……!」
イリシアの目から涙が零れた。
「ミレイユ様……!」
駆け寄りたい気持ちを抑え、ベッドの脇でそっと手を握る。
「お疲れ様でした……」
ミレイユはまだぼんやりしている。
それでもイリシアの手を、弱々しく握り返した。
「……」
ヴィクトルも微笑む。
「よく頑張ったね」
「本当に、お疲れさん」
ジュリアンが言うと、ミーナ涙を浮かべながらジュリアンを押しのける。
ジュリアンとルークが苦笑する。
「よかったぁ……!」
「……無事でよかったな」
ミレイユは皆を見つめてから、筆談帳へ手を伸ばそうとする。
「まだ書かなくていい」
薬玄が止めた。
「今は休め」
ミレイユは素直に手を戻す。
薬玄は全員を見る。
「それと重要なことを言っておく」
一同が姿勢を正す。
「傷が完全に塞がるまで、少なくとも一週間弱はかかる」
「一週間……」
「その間、絶対に声を出そうとするな」
イリシアが頷く。
「はい」
「声を出そうとして無理に喉を動かせば、せっかく繋いだ組織に負担がかかる」
薬玄はミレイユを見る。
「だから、今まで通り筆談帳を使え」
ミレイユが頷く。
薬玄の目が少し鋭くなる。
「それから治療はまだ終わっていない」
「……!」
「手術が終わったからといって退院できると思うな」
ミーナが小さく笑った。
「ミレイユさん、逃げ出しちゃ駄目だよ?」
「お前じゃあるまいし」
「ちょっとルーク?」
薬玄が真顔で続ける。
「絶対に外へ出ようなんてするなよ」
ミレイユが少しだけ気まずそうに目を逸らす。
「……」
「……まさか」
イリシアがミレイユを見る。
「出ようと思っていました?」
ミレイユは答えないが、ほんの少しだけ目を逸らした。
「ミレイユ様?」
イリシアがじっと見る。
ミレイユはゆっくり筆談帳を手に取った。
『少しだけなら』
「駄目だ」
薬玄が即答する。
「絶対に駄目ですわ」
イリシアが諭すように言うと、ヴィクトルも頷く。
「今は治すことだけ考えよう」
ミレイユは皆を見つめやがて小さく笑った。
その笑顔を見てイリシアも微笑む。
6時間にも及んだ大手術、長い長い不安の時間。
その先にあったのは確かな「明日」だった。




